幻聴日記からの9章

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Photo & Text: m a c h i n i s t


シンプルな器、抽象の先の実存


遮音の良さそうなドアの向こうは一段下がった床。その堅牢さに最初の一歩で気がついたけれど、あえて話題にするのは避けた。テクニカルな話題に限られた貴重な時間を使いたくなかった。
光を制限したストイックな空間の正面に鎮座するJBL D44000WXA PARAGON。長年抱いていた「再生音楽の聖地」というイメージに誤りはなかった。ワックスの仄かな香りが聴感覚の緊張を助長させるのか、まだ聴こえこぬサウンドで脳内が充満する不思議な感覚に襲われた。

土曜日の昼下がり、山口孝さんのお宅を訪問した。手紙や電話のやりとりはあったものの、直接お会いするのは今日が3度目である。東京郊外、南面の傾斜地の林を臨む伸びやかなリビングルームでしばし歓談した。話の肴が事前にお送りしていた"at sense"からの数ページのプリントアウトなのが、ちょっとこそばゆい(笑)。デザイン・美術から、氏の専門である写真、音楽、イタリア、そしてオーディオと話題が駆けめぐる山口ワールドについて行くのは大変だったが、これほど刺激的な時間は滅多にあるものではない。じつのところ滞在時間の80%をそれらの会話に費やしているが、その内容は別の機会にして、今日は山口孝氏のサウンドレポートである。

オーディオの音というものは合成波形から複合波形を蘇生させる技を何処かに備える必要があり、その多くは聴き手の認知力に関わる。卑近な例でいえば、オーケストラの内声部の動きだ。スピーカーの前で漫然と聞いていても分からないが、スコアを読んだり、ヴィオラパートの映像が目に入れば、その音は聴こえてくるものだ。意識されないものは認知できないという根本的な仕組みである。だから、人様の音を聴きそれを文章にすることほど怖いことはないと思う。自らの限界を晒すことと等価なのだから・・・。

「凄い」「魂の音」「大音量」「異端」・・・氏のサウンドを評する文言に何度か触れてはいるものの、一向にイメージが沸いてこない。先日のインターナショナル・オーディオショーでは、タイムロードのブースで氏の唯一の講演が行われ(残念ながら参加することは叶わなかったが・・・)そのときの反響もやはり同様のコメントが多かった。
音を伝えるレポートを「凄い」という言葉なしでものにしたいと考えた。が、そう簡単ではないことを山口邸の最初の一音で思い知る(笑)。

演奏プログラムは先のショーでも演奏されたという、カンテフラメンコの3枚と、持参したムジカ・アンティクヮ・ケルンのバッハである。まず新旧録音のカンテフラメンコを聴いた。音量レベルは大きすぎるということはなく、むしろ聴きながらスピーカの方へ体をずらしていったくらいだから、まだまだ大丈夫だ(笑)。低中高域のパルス的反応偏差はまったく関知できない。究極のフルレンジスピーカーはかくあるべしという鳴り方を、このフロントローディング3ウエイスピーカーが奏でる不思議さ。しかし、もっと重要なのは「音楽現場」が非常に近いという新鮮な驚きだ。といってスピーカー自体が楽器にすり替わるような単純リアルではけしてない。

ギターソロの部分で思い当たった。これは演奏者が感じる音楽そのものではないかと。氏のプロ演奏家としてのキャリアがそうさせるのかどうは分からないが、コンサート会場でときに感じる、音楽が遠いもどかしさの対極にある環境を具体化したものではないだろうか。聴き手が演奏者と同化するようなグルーヴ感!演奏する本人にしか伝わらない音のコアをしっかり忍ばせている。
しかし、これのどこが「異端」なんだろう。録音の物理的クオリティは忠実に反映される。例えば「マイテ・マルティン "ケレンシア"」では一瞬、演奏が途絶えた瞬間の空間描写に注視した。エコー成分が高域に偏ることなく、深く柔らかい余韻が壁面の後方まで拡がる。センシティブかつクイックであることの証明である。ただ、ここまでの3枚は初めて聴くソースであり、より踏み込んだ意見を持ち得ないことがやや残念でもあった。



持参した唯一のディスクはムジカ・アンティクヮ・ケルンの「音楽の捧げもの / フーガの技法」である。フーガの技法から「contrapunctus12、13」を聴き、チェンバロの毅然として静謐な響きを確かめながら、ぼくのこころは「contrapunctus14」を掛けてもらうべきか否かで迷っていた。彼らの演奏するこの未完の4重フーガは類い希な美しさと厳しさを兼ね備えた至高の音楽である。山口氏がこれをどう鳴らすのかに非常な興味があった。わが家では持ち込まれたディスクが巧く鳴った試しがないので(笑)やや躊躇いもあったが、音楽の一期一会を確信し、そしてそれは現実になった。
ここで奏でられた演奏は、各楽器の小宇宙がさまざまな葛藤とともに絡み合い昇華しながら、壮大な大宇宙を構築する様を、俯瞰で眺めるのではなく、現場に入り込んで目の当たりにするという希有な体験になった。霧のような不定形のフォルムが瞬間変位し質量と伴った音素が発生し、さらにそれらが連携して音楽として成立する場に立ち会ったと言いかえてもいい。オーネット・コールマンの一時期の白熱と同質のものを、オリジナル楽器を用いるドイツ気鋭の演奏家集団から感じるとは思ってもいなかった。

フロントエンドのLINN CD-12を除けば、もはやヴィンテージに分類されるコンポーネントで構成された氏のシステム。これらが具現するサウンドは豊穣のボディとディープな色彩を備えているが、表現する世界には古さの微塵もない。過去の演奏を現在の時空に引きずり出すさまは極めて鋭利であり、その音は表層ではなく内部にフォーカスされ、音の在りかを存分に示している。ここに至るまでの膨大なチューニングが想像を絶するものであろうことは理解できるが、いま聴こえている揺るぎないサウンドからは困難辛苦の片鱗さえ窺えない。在るのはLINNでもJBLでもない、ひとりのアーティストの芸術観に対峙し受けとめるシンプルな「器」そのものだった。
当日の演奏リスト
・ホセ・メルセ「カンテ・フラメンコ・ベイシコ」RCA
・マイテ・マルティン「ケレンシア」 VIRGIN
・デュケンデ「サマルーコ」PLYDOR
・ムジカ・アンティクヮ・ケルン「音楽の捧げもの / フーガの技法」ARCHIV

あとがき
6月の菅野沖彦氏に続き今回の山口孝氏。それぞれの音楽世界に触れることができた。お二人のその人生を賭けた入魂の成果には圧倒されるばかりであったが、その感動をなんとか書き留めておきたいという願望がこれらの文字群になった。常套的形容で綴られた文章に歯がゆい思いを持たれたとしたら、表現力というより聴き手の限界を示しているということでお許しいただきたい。

両者の鳴らす世界はそれぞれ異なるものの(というか正反対に位置するが)、確固たる存在という意味で、天に向かう二本の「塔」に例えられるかもしれない。菅野サウンドが抽象の先の究極の構造美を描くとすれば、山口サウンドは抽象を越えたところの実存世界を提示している・・・くらいの違いだ。それは「リアル」の捉え方の問題に行き着くし、芸術表現の「器」としてのオーディオには、使い手の価値感と個人的履歴が刻み込まれている、という思いをあらたにした。

自分のオーディオを考えてみた。さきのお二人を「塔」に例えたのは、それを眺める自分というものも同時にイメージしているということでもある。自分のポジションをどちらかにシフトしたいとは思わなかった。40年を費やした成果に若干の自負もある。けれど、塔の基礎も高さも明らかに足りないのが身に浸みる今日この頃(笑)。なにを成すべきか、成さざるべきか。時間はまだ残っているのだろうか。(2005年10月記)


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