幻聴日記からの9章

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Photo & Text: m a c h i n i s t


Thinking Now 03
144 DEEP SUMMER MIDNIGHT

最近思うのは人間の「目」と「耳」のこと。感覚器としてのスペックはそれほど重要ではないように思えるし、観ることも聴くことも「脳」のちからにそのほとんどを依存している。これは以前の日記にも断片を書き連ねていると思うが、もうひとつ別の面に気がついた。それは目も耳も絶えず動いている、または微振動しながら、情報を得ているということだ。カメラのレンズやマイクロフォンとの最大の違いはここにあると思う。逆三次元スキャンと言うべきか。動きつつ受けとめる立体的な情報は途方もない大きさなのではないだろうか。
例えば生音を聴く状態を考えると、鼓膜を揺らし脳に伝わる波形は合成された波形であるとしても、耳と身体はミクロ的には固定されていないから、マイクロフォンの感じる合成波とはかなり異なり、空間に漂うさまざまな波を感じていると思うのだ。移動による変化分の厖大なデータをたよりに、脳は鼓膜が伝える合成波形から本来の個々の波を容易に解きほぐすことが出来る、とかね。夏の深夜の妄想か・・・ちなみにスピーカーの前で動きながら聴いてもこれはダメです(笑)。


148 「聞く耳」と「聴く耳」の長い距離について

高齢のオーディオ評論家氏を指して、耳の性能が老化しているはずだから信頼できない、という趣旨のコメントが某巨大掲示板をはじめネット上に蔓延っている。発言者みずからの浅薄さを顕わにしているようで、とても情けない。人間の耳は脳が支配する聴感覚機構の端末であり、マイクロフォンのようなパッシブな受動器とはまったく異なる原理で動作していることを理解すべきと思う。聴くという行為は、短期の過去記憶と現在認識と未来推測を織り込みながら、かつ時間軸にシンクロさせるアクティブな動作だ。スリットから漏れてくる過ぎゆく景色の断片を刻むのとは訳がちがう。音楽の素養を加えると話が混乱するので触れないけれど、上手く聴くということは長い訓練が必要なんだ。精神論ではなく、一を聴いて十を知ったり、その逆もあり得る。それに劣化という現象なら生まれたときからすでに始まっているわけで、脳はそんなこともとっくに織り込み済みではないか。


205

究極のデジタル情報は「アナログ」と同じ姿をしているはずだ。われわれの身の回りにいつも存在しているシームレスな連続世界も、微視的にながめればすべてが数字に置き換えられる現象らしいが、アナログと同じ姿の「デジタル」は、一体どこが違うか。それはすべての現象が白日の下に晒され、自由にコントロールできる粘土のようなフレキシブルな時空と言えるのではないか。くらべればアナログはファジーにしか捉えきれないし、ときに暴走し止めることができない「野獣」かもしれない。


207

写真とオーディオの類似性が語られることは多いけれど、ここ10か月ばかり写真のことばかり考えてきたわたくしとしては、日々の写真表現の試行錯誤が「オーディオ」を考え直すいい機会になっている。豊穣な現実世界に対して、落とし込まれフィックスされた一枚の画像とのあいだの落差は、すなわち観察・表現者のフィルターで排除された情報の屍の量と計り合っているともいえる。この一見ふるい落とされたかのような見えない事象というものが、残され定着された像の裏側に隠れているという想い。オーディオでいえば、音の背後を聴くということに他ならないし、無音や沈黙のクオリティさえ問われる。こういう考えは「見たり聴いたり」することにやや疲労しているせいかもしれない。


233 構造 vs 実存

AUDIO BASIC誌に連載中の米谷淳一氏のコラム「音に還る旅」。難解ながらスリリングな論議に興味が尽きない。発売中の冬号第三回では、作用・反作用の現象から測定系と人間の受信・認識系の差異を、従来は触れられることのなかった視点で解き明かしている。計測器のアース電位を別系統のセンサーで管理制御しなければならん、と考えつつ、ハインゼンベルグの「不確定性原理」や、遠く「実存主義」にまで思いを巡らせたくなる世界観。遙か彼方を見つめた強烈なオーディオ論だ。


374 A or D

どちらが優れているかといった議論には興味がないけれど、横木さんのブログ「THE EYE FORGET」0503-0505→の、デジタルでしか表現できないものは何かという命題に至るまでの、銀塩とデジタルの差異論がとても面白かった。
けれど、現場→表現者→再現→受け手というプロセスのいちパートがどちらであっても、より良いものをめざせば結果はそう変わるものではないと思っている。連続世界を切り取り再構築する手段であることに変わりはないからだ。音楽はCDになってなにか変わったのだろうか。両者が違和感なく聴き手に寄り添ってくれるほうが、ぼくには嬉しい。

この日記で「連続世界」という言葉を過去に3回くらい使った。好きな言葉だけれど実際は正しくない。
音は空気の疎密波であり局所的気圧変化のパターンだが、あるスペースに分子が幾つあるかという問題でもある。人間の聴覚だって最後は内耳の有毛細胞が発するパルス信号を脳細胞が化学変化として認知する仕掛けだ。世の中の事象はすべからく最小粒子に還元でき、それは物理的に数えることが出来るらしい。
人間の感覚はこのような断片データを処理するD/Aコンバータであるといえる。それは元データをカウントすることは出来ないかわり、世界を連続するものとして再構築する。アナログ・デジタル問題で重要なのは人間の感性レベルでの「閾値」をどこに設定するかであると思うが、規定しにくい困難さをともなう。訓練・非訓練の目と耳、意識レベルの高低、ざっと見積もっても1000倍くらいの幅がありそうだ。

漆黒の闇がノイズフロアを意味し、光彩の果てが飽和であることは、アナログもデジタルも変わりないけれど、後者のそれは両極も数値で規定される。音声テープや画像フィルムにおけるダイナミックレンジの両翼はノイズの中で揺らぎながらも、ある方向性をもっているように感じる。たぶん錯覚だろうが、メンタルな部分への働きかけという意味で、無視はできないと思う。


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