024 ラ・スカラ 特別の日
25年前の1月9日午後、われわれはミラノにいた。ウエディングを1か月後にひかえた婚前旅行、ローマの団体ツアーを一日で切り上げ、空路で到着したばかりだった。
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ヴィットリオ・エマニュエル通りの一つ星ホテル、ロビーに掲げられたポスターはスカラ座200周年記念公演の告知だった。1月9日20時30分開演とある。1日限りのスペシャルプログラムは、CLAUDIO
ABBADO指揮の「SIMON BOCCANEGRA」。シモンがPIERO CAPPUCCILLI、 フィエスコNICOLAI GHIAUROV、そしてマリアはKIRI
TE KANAWA。なんという巡り合わせ!と喜ぶのも束の間、もう全部売り切れているよ、とフロントのイタリア人が笑う。そりゃそうだよねえ。
その晩、雪の降りしきるスカラ座の正面玄関で淡い期待とともに待機するが、ダフ屋の気配もない。頻繁にリムジンが横付けになり、毛皮のカップルが続々集合する。あきらめ気分のついでにロビーの雰囲気を感じに中へ入る。まさに上流社会のまばゆい輝き、ビスコンティの映画そのもの。
開演間近、後ろ髪をひかれながら雪の積もった舗道へ出ると、建物左側で人の動く気配。なにかと見れば4-5階席専用通路で並んでいる「普通」の人々はないか。歌舞伎座と同じ仕組みにちょっと笑った。階段のうらぶれた雰囲気もそっくり。
025 ラ・スカラ 音空間
幸運にもわれわれはスカラ座の4階席に開演直前に座ることができた。息を整える間もなくアバドが登場。彼の振り下ろす一撃に、観客の歓声が一瞬静まる。序幕のテュエッティでもう唖然としてしまった。なにに驚いたって「音」そのもの。えっ!こんなに俗っぽい音でいいのかぁと言うくらい奔放で色彩感充満。フォルテッシモは天蓋まで飽和するエクスタシー。このころのアバドは、軽いフットワークで全身にパワーを漲らせた気鋭の司令塔だった。しかし出し物が「シモン・ボッカネグラ」でこれって・・・。
すこし前まで、わたしは舞台装置デザイナーをめざしていて、修行ということでオペラの舞台監督の助手もやった。藤原オペラの舞台は何回か見ているけれど「シモン・ボッカネグラ」は始めてだった。自らの不覚をちょっと恥ながら、ラ・スカラの空間に充満するフルボディの濃厚色、でも重さを微塵も感じさせない、時空が織りなす音の「饗宴」に身をまかせた。
026 サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会
スカラ座の興奮さめやらぬ翌朝、雪は降りつづいていたけれど、われわれはサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会へ向かった。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見るためだ。事前情報によると大規模な補修工事が始まるらしく、いちげんの観光客が入れるものかどうか不安を抱きながら、雪の降り積もった狭い舗道を歩き続けた。
・・・しかし、いま考えても不思議な体験だった。並ぶ行列も、後に続く人影も見あたらないばかりか、係員の気配さえない。まるで導かれるかのように「最後の晩餐」を正面に配した部屋(元は修道士食堂)に入っていった。
027 静止した時間
主とその使徒たちはひっそりと視界の中に佇んでいて、空間を共有しているのは我々二人だけだった。壁画の前には櫓が渡されており、調査中の遺跡といった風情ではあったけれど、むきだしの壁画がなにものにも遮られずに、眼前に屹立していた。作業用の無骨なライティングのもと、どれだけの時間この場所に止まっていたか覚えていない。まったく音のない静止した時間のなかにいたことだけは確かだ。
028 時空の重さ
第二次世界大戦末期、ドイツ空軍の爆撃で瓦礫と化したサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会。その中で「最後の晩餐」の壁面だけが、無傷のままで天に向かって屹立していた事実は奇跡としか言いようがない。この残された壁を生かすべく建物が再生された。のちに壁画は、徹底的な復元作業によって、ダ・ヴィンチがたったいま描き上げたかのような極彩を取り戻しているけれど、500年の時空の重さを背負った「最後の晩餐」の最期に巡り会えたことは、われわれにとっての奇跡であった。そして、この記憶はいまも鮮明に心のなかにある。 |