幻聴日記
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幻聴日記最新版はこちらから 

001-006 001 イエスタデイズ 2004/03/09
002 関連付け・・・ 2004/03/09
003 非マニア宣言!較べることに飽きたんだよね。 2004/03/09
004 ザ・ニューヨーカーのDNA、あるいは栄光と挫折 2004/03/10
005 挫折してわかるストラトの包容力 2004/03/10
006 中野クラシック、ここだけは空気が止まっていた。 2004/03/10
007-012 007 音場か、音像か、それが問題 I 2004/03/11
008 音場か、音像か、それが問題 II 2004/03/12
009 A BUS OF THE RISINGSUN 2004/03/15
010 唄のないフラメンコなんて・・・ 2004/03/15
011 限りなく透明に近い・・・ 2004/03/16
012 ダイナミックレンジ 2004/03/16
013-018 013 機械変換系の対称性ということ 2004/03/17
014 アナログマスター、デジタルリマスタリング I 2004/03/18
015 アナログマスター、デジタルリマスタリング II 2004/03/18
016 いま「ウォークマンの修辞学」を読む 2004/03/19
017 真夜中の女歌手 BARBARA I 2004/03/22
018 真夜中の女歌手 BARBARA II 2004/03/23
019-024 019 真夜中の女歌手 BARBARA III 2004/03/24
020 機・械・愛・・・PRIMO-JR 2004/03/25
021 疾走する演奏者の時間軸を聴き手の意識が・・・ 2004/03/26
022 究極豚饅の行列に並んだ、食べた。 2004/03/27
023 通り過ぎるゼロと無のゼロは、はたして同じか? その1 2004/03/29
024 MILANO1979 I ラ・スカラ 特別の日 2004/03/30
025-030 025 MILANO1979 II ラ・スカラ 音空間 2004/03/30
026 MILANO1979 III サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会 2004/03/31
027 MILANO1979 IV 静止した時間 2004/03/31
028 MILANO1979 V 時空の重さ 2004/03/31
029 桜を詠むのは難しい・・・ 2004/04/02
030 音の彼岸 その1 2004/04/02
031-036 031 記憶の名前 2004/04/05
032 世界のすべては「振動」で作られている・・・ 2004/04/06
033 音の彼岸 その2 2004/04/07
034 伝統は精神を未来へ繋ぐ系である I 2004/04/08
035 番組の途中ですがイラク派兵には反対なので・・・ 2004/04/09
036 伝統は精神を未来へ繋ぐ系である II 2004/04/09
037-042 037 くるまのカタチ 2004/04/12
038 アナハイムの「トスカニーニ」 2004/04/13
039 ちあきなおみ 演じる歌 2004/04/14
040 AEロックって使いにくいよね 2004/04/16
041 デジタルカメラ近未来図 2004/04/16
042 フレームの存在 I 表現の次元 2004/04/19
043-048 043 フレームの存在 II 彼岸の音(続編) 2004/04/20
044 フレームの存在 III ズームレンズの憂鬱 2004/04/21
045 精緻の限界点 2004/04/22
046 時空の所在 2004/04/23
047 ドラマーのタイムセンス 2004/04/26
048 マイルススタイル 2004/04/27
049-054 049 無題  2004/04/27
050 マイルスマイベスト 2004/04/28
051 無題2 2004/04/29
052 (特別増刊)日本、ヤバくないか? 2004/04/30
053 ミッドナイト・ブルー 2004/04/30
054 イラストレーター佐藤ヒロさんのこと その1 2004/05/02
055-060 055 イラストレーター佐藤ヒロさんのこと その2 2004/05/02
056 福生 DEMODE DINER 2004/05/03
057 SHOPなのにHOUSEと呼ぶらしい。 2004/05/04
058 ウルトラソニックナチュラルドラゴン 2004/05/05
059 伝統音楽における低音問題を考える。 2004/05/06
060 代数と幾何、あるいは離散と連続。大橋力の世界観 2004/05/07
061-066 061 演歌、もう古典芸能でいいではないか。 2004/05/08
062 音の彼岸 その3 無形のフォルム 2004/05/10
063 音の彼岸 その4 一本の伝送路 2004/05/11
064 ベイカー&リトル  2004/05/12
065 デジタルカメラ近未来図 その2 2004/05/13
066 大正桁? 2004/05/15
067-072 067 真夜中の女歌手 BARBARA IV 2004/05/17
068 IN A SILENT WAY 2004/05/18
069 普通の音 その1 2004/05/19
070 普通の音 その2 2004/05/20
071 普通の音 その3 2004/05/21
072 最初の1インチ(春の号の終わり) 2004/05/22
073-078  
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001 イエスタディズビリー・ホリディの歴史のなかでコモドア時代の録音がとくに好きです。この「YESTERDAYS」は1939年のセッションで、有名な「奇妙な果実」と同じ日に録音された4曲のうちの一つ。幸せだった日々を淡々と唄っています。つい昨日、この曲のオリジナルメディアであるコモドアのSP盤を入手したのです。もう片面は「I gotta right to Sing the Blues」。N.Y.5番街のBrunswick RecordのBdcstg Studioで収録された、と日本盤のLPに解説がありました。 SP盤が廻ると、音みぞを通して65年前のビリーとダイレクトにつながるような気がします。 002 関連付け・・・ SP盤の話題が続きます。昭和10年頃の日本コロムビアの長唄や、ほぼ同年代のサボイ盤のチャーリー・パーカーなど素晴らしいハイファイサウンドに思えます。F、Dレンジとも不満なんてまったくない。これをCDRに記録して再生すると、大幅にクオリティダウンして聴こえるのが不思議。気になるのでリッピングデータをFFT分析してみると、ノイズ成分は20KHzまで伸びている。ここで、仮説をひとつ。脳は楽音とノイズを関連づけて、記録されていないはずの高域を感じているのではないか、と。「だまし絵」というのか「判じ絵」というのか、ありますよね。あれと同じか。ノイズをカットした復刻盤の音が悪い理由がわかったぞ(笑) 003 非マニア宣言!較べることに飽きたんだよね。オーディオ装置は、けっこう複雑な系で成り立っているから、なにかを換えれば音はかならず変化します。オーディオマニアはそういう不安定な仕掛けを楽しんでいるのかもしれないけれど、わたしはマニアではないので、いつも同じコンディションで聴きたいし機械のことは出来れば考えたくない。くるまのフロントマスクは運転しているときは気にならないものです。ちょっとはなしが違うか(笑)。機械の出す音はそれぞれ異なるけれど、機械同士を較べてどうするんだと個人的には思うわけです。較ぶべくは音楽との距離であって、いつも一対一の関係ではないか、とね。 004 ザ・ニューヨーカーのDNA、あるいは栄光と挫折 James L. D'Aquisto(1935-95)の代表作「NewYorker」。これはレプリカですけど、原図から忠実に再現しているだけあって、やはり大したものでありました。見ているだけでケニー・バレル「Midnight Blue」の"Soul Lament"が弾けそう思えてくる。しかし現実は・・・わたしの好む低い絃高ではこの楽器の本当の音色を引き出せない。1絃011も論外のようで、「キミには無理だよ。」ギター本人が諭すように伝えてきた。そういえばこのギターの前の持ち主も、弾きこなせなくてレスポールに戻ったんだっけ。恐るべしギターのDNA。。。 005 挫折してわかった、ストラトの包容力というわけで、ダキストに挫折したのは、これを長いこと使っていたからかも。ストラトキャスター54年モデルの、これも復刻版。ガラ巻きコイルのPic Up「ブルーベルベット」を装着しているんだけど、この艶やかでクリーミーなサウンドは侮りがたい。ネックの太さを考えればカッティング奏法に向いているんでしょうね。でもわたしはこれを指で弾きます。で、○○歳になったらストリートデビューしようと、けっこう真剣にトレーニングに励んでいた時期もあったのに、もはやその時期も過ぎていまは停滞している。でもこの楽器にふれていると、いつの日か数人の聴衆をまえにチェット・アトキンスアレンジの「イエスタデイ」を弾いている自分がイメージできるんだよね(笑)。 006 中野クラシック、ここだけは空気が止まっていた。フジヤカメラのついでにちょっと寄ってみようかと。あやー開店前だ、人の気配もない。五木寛之の若き日のエッセイ「風に吹かれて」にも登場するこの名曲喫茶。前回行ってから30年ちかく経つけれど、その頃も今と同じくらい朽ち果てた雰囲気があった。なんか人間の皮膚のようで、こういう行き方もあるなあ、などと考えながら駅に向かったものです。ちなみに中野ブロードウエイに住む友人に聞いたところでは、1:粉を溶かしたようなオレンジジュースは昔と同じ、2:壁には寄りかからないほうが賢明、とのこと。ご参考までに。 007 音場か、音像か、それが問題 その1近年のハイエンドはみんな音場追求らしい。部屋の壁がなくなって目を瞑るとそこはコンサートホール、が究極みたいです。クラシックのオーケストラをあまり聴かなくなったわたしには「ヘエ」としかいえないけれど、原寸大のオーケストラが自分の部屋の大きさと関係なしに存在、感知してしまうというシチュエーションを疑問に思うわけです。かといって部屋のサイズにあわせてミニチュアのオーケストラが展開するってのも盆栽いじるようでイヤだし・・・。オーケストラのような集団表現は、作曲家の抽象、概念の具現化という意味合いが大きいと思うし、それは出た音と等価以上かもしれない。もとよりコンサートホールは、多くの観衆に聴かせるための手段なわけで、絶対条件ではないはず。100人の演奏者の集積音がサッカーボールくらいの塊になって、それを1.5メートルの距離で聴くのも、それはアリではないかなあと思うのは邪道かしら。 008 音場か、音像か、それが問題 その2わたしの意識は「音像」にそそがれることが多い。しかしこの音像は切り絵のような平面ではなく、側面から裏面に回り込む様子や、背後の気配さえ感じさせてくれる三次元の音塊であってほしい。願わくば周囲がすこし滲んで空気と溶けあうさまも・・・。それだったら「音場」を再現することと変わらないのか。そう変わらないのだけれど、構築・存在させることと、意識をどこに向かわせるは微妙に異なるのですよね。 009 A BUS OF THE RISINGSUN 新宿駅南口で外界に出る。一瞬、朝日をあびた「鮮やかさ」が視界に入った。カメラを首から下げる野暮はしたくないので、いつもそれはバッグに潜めている。信号待ちの「鮮やかさ」の正体が、どうか過ぎ去ってしまわぬように祈りながら、あわてて取り出しシャッターを切った。こういうときは構図も露出もなるようにしかならない。ノートリミングです、というか基本的にトリミングはやらない主義です。ちなみにカメラはPENTAX*istDでsmc A/50mmf1.4を装着していました。 010 唄のないフラメンコなんて・・・CARMEN LINERES 唄のない「津軽じょんがら節」はまったく面白くないけれど、ギター演奏だけの「フラメンコ」にもあまり興味がない。カルメン・リナーレスはカンテ・フラメンコの伝統的を受け継ぎながら、現代のまさに生きた音楽を具現するアーティストであると思う。その声は鋭利でありながらグラマラスな熱気を伴っている。このアルバム「La Iuna en el rio」は、曲によってフルートやチェロも動員した多彩な音づくりなのに、これらの作為が音楽の内側の血の濃さを一向に減らさないことに驚く。両翼に位置するギタリスト、Paco CortesとPedro Sierraも強靭でハイスピード、ときに天を舞うような軽やかさ。 AAD表記のアナログ録音で、どこまでも伸びる強大なDレンジと漆黒のSN感に驚愕。写真右下のジャケット「シャンソン/フラメンカ」これもカンテ・フラメンコ。一流どころ12組がフランスの名曲にチャレンジしている。たとえば「ラ・ボエーム」まぎれないスペインの色、ディープではあってもけしてゲテモノなんかじゃない。世の中には凄い音楽がキラ星のように存在し、でも聴く幸運に巡り会うのは、ほんのわずかということを実感しながら聴き入った。 011 限りなく透明に近い・・・写真FOOT 「透明感」という言葉はどうなんだろう。音像の表面の不透明な膜が本体のクリアネスを損ねている、というなら分かる。でも「透明な音」っていう表現は、音像の向こうに別の音像が透けて見えるような状態を想像してしまうのです。これはかなりアンナチュラルな世界。個人的には音量を絞り込んでいって限りなく無音に近い状態に「透明」を感じるのだけど、ヘンかなあ。ついでに言うと「くちびるの大きさ」とか「滲みのない音」あるいは「ピンポイントの定位」なんていう表現にも、違和感を感じるわけです。なぜかといえば、人間の声はくちびるが出すわけではないし。音には滲みがあるし、音像には幅があるから・・・。(photo by scylla, model: cha-) 012 ダイナミックレンジ 写真0906 大好きな写真家、横木安良夫さんのサイトDIGITAL DAY BY DAY、2003年9月2日の日記より・・・「・・・画素数が多ければいいみたいな風潮もある。いらないんだよ。写真にそんなに多くの情報量なんて。写真は無限の情報量のある、僕らの生きている世界から、殆どの情報を捨てることによって何か真実を発見する作業だから。」 013 機械変換系の対称性ということ 写真0990 ターンテーブルの回転力がスタイラスを揺らす。連動するコイルやマグネットが発電することで、ディスクの溝から音楽信号をとりだしている。何段階かの電気的増幅を経て、スピーカーマグネットの磁界に置かれたコイルが動き、コーンが空気を揺らし音を再生させる。ターンテーブルの回転もスピーカーの磁界も、直流バイアスのエネルギー源、などと考えつつ、再生システムはアンプを中心に置いた機械変換の対称で成立していることに気づいた。デジタルオーディオは・・・再生の枠をこえて収音から再生にいたる大きな系、すなわち伝送・増幅系の両端に機械変換であるマイクロフォンとスピーカーを置いた、きわめてシンプルな対称系。だからとても音が良い・・・といわれる日は近いのだろうか。 014 アナログマスター、デジタルリマスタリング その1 写真002 一部ニコンユーザーに「神のレンズ」と言わしめたAi180mmF2.8ED。これが手元にあったのは2週間ほど。描写能力に感嘆しながらも、この画角と重量は手持ち撮影では使いこなせないと悟ったから。この写真はこのレンズによる数少ないショットのうちの1枚で、ボディF3hp、フィルムFUJIベルビアによるもの。もちろんポジフィルムをスキャニングした時点でデジタル画像ではあるのだけれど、なにかが違う。なんなのだろう。 015 アナログマスター、デジタルリマスタリング その2 写真003 フィルムの銀粒子は、一粒づつ解像できるわけではなく、周囲の粒子を「道連れ」というか相互に影響を与えあいながら記録される。ポジをチェックすると最暗部、最明部とも潰れているような、いないような。階調のある粒子が存在していると感じるその実体はノイズなのか。001でふれた「関連付け」に考えが行きつく。この750×500ピクセルの画像でどれだけ伝えることができるか自信はないけれど、湿気を帯びた空気の匂いがたしかに伝わって来るような気がした。 016 いま「ウォークマンの修辞学」を読む 写真1037 ラブ・サイケデリコ(LOVE PSYCHEDELICO)が好きだ。Kumiさんの飾らないストレートアヘッドな声、古きロックンロールのエッセンスをまぎれ込ませたシンプル&ドライのバンドサウンド。素直にかっこいいと思う。でもオーディオ的に観察すると彼らのCDの音質は良くない。というか今のJ-POPの録音はみんな似たようなものだけど、じつは伏線があってそれは25年前のはなしだ。 1979年、SONYウォークマン発売。その2年後の「ウォークマンの修辞学」細川周平著(朝日出版社1981)その的確で予見的な記述はいま読んでも新鮮。ウォークマンが音楽と聴き手の関係を大きく変えたと・・・。しかし、ヘッドフォンステレオは「聴かれ方」だけではなく、後年の音楽の作り方にも大きな影響をおよぼしたように思う。都市の喧噪が音楽のノイズフロアになり、より明快な輪郭を送り手に要求した。階調よりパルシブな破壊力が尊重され、音楽はON-OFFの符号列のように聞こえはじめた・・・と言うといかにも年寄りじみているよねえ(笑)。その後のコンパクトディスクの誕生、という時系列は今もって興味深い。 017 真夜中の女歌手 BARBARA その1 1062 放浪の末の、いまは死の床にいる男(じつは実父)があなたに逢いたがっている、という手紙で始まる「ナントに雨が降る」。バルバラ自作のこの歌唱は、たとえ歌詞がわからなくても、音楽の力が静謐の衣に包まれた彼女の心象を伝えてくる。歌は、言葉を旋律に乗せているだけじゃない、ということを改めて実感する。バルバラはレクリューズ時代に「dis,quand reviendras-tu?」というアルバムに吹き込んで以来、ACCディスク大賞の「私自身のシャンソン」や多くのライブコンサートで、この曲を繰りかえし記録した。とくに81年のパンタンライブの迫真のパフォーマンスは、人生の深淵で「慈しみ」の結晶を抽出したかのような光彩を放っている。ちあきなおみの名唱「喝采」は、この「ナントに雨が降る」を下敷きに作られたと思う。似ているかどうかといった下界のはなしではなく・・・。 018 真夜中の女歌手 BARBARA その2 1074 元競馬場だったスペースに設けられた特設ステージ、数千人の観客の前で行われた1981年のパンタンライブ。中央にバルバラと自身が弾くピアノ、あとはマルチキーボードプレイヤーとパーカッショニストがいるだけのシンプルな舞台だ。バルバラの声は若き日のの透明感、静寂感は影をひそめ、ときに高音域は声帯の限界を垣間みせる。しかし聴き込んでいくと、そんなことは些細な現象に思えてきて、ただ一人のアーティストの真摯で強烈な放射力の虜になっている。歌は、言葉と音がすべてだと思っていたけれど、それは間違いとLDの映像が教えてくれた。表現が限界に近づいているときの唇や頬や眼差しのテンション、最後のフレーズが終わるときの身体動作、すべてが連鎖して大きな表現行為になっている。このときバルバラは51才。自身を徹底的に追い込む姿勢に形容する言葉が見つからない。得難い瞬間があの場所に存在し、こうして記録として残っていることに感謝・・・。 019 真夜中の女歌手 BARBARA その3 0803-4 1958-64年の間、バルバラはレクリューズというセーヌ左岸のキャバレーで歌っていた。59年、まだ無名に近かったころのライブ録音がフランスEMIから「barbara La chanteuse de minuit」というタイトルでCD化されている。「わたし自身のシャンソン」でその存在を世界的に認知されるのが65年。ということは、このレクリューズの客に聴かせることで自身の音楽を育んだといえるかもしれない。レクリューズでの彼女の出番は深夜の12時と決まっていたそうで、それが「真夜中の女歌手」と呼ばれる所以だ。全曲自作でピアノ弾き唄い。歌も後年に聴かれる表現のダイナミズムを予感させるし、自身のピアノも歌と拮抗するパワーを秘めている。このCD、惜しむらくは観客のまばらな拍手を消し去っていること。この時ここに居た、いま思えば「夢の体験」をした数少ない聴き手の気配も、実は感じたかった。・バルバラのレコードは、再生が難しい部類に属すると思う。写真でいうと漆黒の闇を背景に、ハイライトを白飛びさせないローキープリントであってほしい。でも、その内部の階調はおそろしく豊富で、微妙な色彩の移ろいが表現のポイントになる。フランス語という言語の特質なのか、経過音的に微妙なニュアンスが多く出てくる。このあたりをアナログディスクはいい感じで再現する。CDではコントラストが付きすぎて力が前に出てしまう傾向があるのが残念だ。(写真:稲毛CANDYにて) 020 機・械・愛・・・PRIMO-JR 写真1021 はじめて使ったカメラがこれだったらカッコいいけれど、じつは母が使っていた。東京光学(トプコン)のプリモJRという二眼レフ。半世紀近い歳月を経て、いまここにある。この写真では判りにくいけれど、幅6センチ高さ12センチ弱のキュートなボディはいま眺めても魅力的。ベスト判と呼ばれる1コマが40×40ミリで写るロールフィルムを装着する。プログラム露出を容易にアレンジする、シャッターダイヤル連動のEV値的プリセットが面白い。で、ほぼ同じ時期に「コニカ・スナップ」というレンズシャッター式35ミリカメラを買ってもらった。マイ・ファースト・カメラだ。フィルムチャージが2回巻き上げ式で、ちょっとダサイなぁと思いながら・・・LEICAの傑作M3の初期型が2回巻き上げだと知っていれば、逆の思いだったのに(笑)。 021 疾走する演奏者の時間軸を聴き手の意識が・・・ 写真0043 例えば、スピードスケートを撮影するレール移動のTVカメラ。対象物と共に移動することで詳細な変化を観測している。人間の「聴感」も同じではないか。けして固定されたスリットをとおして音が過ぎ去っていくのを観測するのではないと思う。聴感の最小ユニットは、音を感知する瞬間の前後に過去記憶、未来推測が連なった状態で形成されていて、そのような一種「滲み」を持つ中心点が時間軸上を推移しているのではないかってね。 022 豚饅の行列に並んだ、食べた。 1165 みなとみらい線が開通して、中華街の元気が復活しているみたいです。豚まんで人気の「雅秀殿」、長ーい行列には中国人も加わっていました。胡麻油の香り高き「具」の出来具合いもたいへん結構なものだけど「皮」がなんとも旨いのだ。具がなくなって最後の一口が皮だけになったとしても、幸せ度が下がらないところが凄い。 023 通り過ぎるゼロと無のゼロは、はたして同じか?  1109 相対性理論と量子力学の統合というべきか、両者の矛盾を取り繕ったと噂の「ストリング理論」ではありますが、私にはイメージの断片さえ湧かない。11次元世界で打ち震えるストリングって一体なんだ。物理学は真理を記述するもの、という期待は間違いかもしれないと思った。測定さえ出来ない事象をもちいて数式として完結する理論。現世には現れないのに、存在する事象というものがあり得るのか。あるいは「真理」そのものが幾通りもあるってことか。もう少し考えてみよう、とはいうものの・・・(写真:みなとみらい線横浜駅にて) 024 MILANO1979-I ラ・スカラ 特別の日 雪のドウォーモ広場 25年前の1月9日、われわれはミラノにいた。ウエディングを1か月後にひかえた婚前旅行だ。ヴィットリオ・エマニュエル通りの一つ星ホテル、ロビーでみたポスターはスカラ座200周年記念公演の告知だった。1月9日20時30分開演とある。1日限りのスペシャルプログラムは、CLAUDIO ABBADO指揮の「SIMON BOCCANEGRA」シモンがPIERO CAPPUCCILLI、 フィエスコNICOLAI GHIAUROV、そしてマリアはKIRI TE KANAWAだ。なんという巡り合わせ!と喜ぶのも束の間、もう全部売り切れているよ、とフロントのイタリア人が笑う。そりゃそうだよねえ。その晩、雪の降りしきるスカラ座の正面玄関で淡い期待とともに待機するが、ダフ屋の気配もない。頻繁にリムジンが横付けになり、毛皮のカップルが続々集合する。あきらめ気分のついでにロビーの雰囲気を感じに中へ入る。まさに上流社会のまばゆい輝き、ビスコンティの映画そのもの。開演間近、後ろ髪をひかれながら雪の積もった舗道へ出ると、建物左側で人の動く気配。なにかと見れば4-5階席専用通路で並んでいる「普通」の人々はないか。歌舞伎座と同じ仕組みにちょっと笑った。階段のうらぶれた雰囲気もそっくり。(つづく)写真:雪のドウォーモ広場 OLYMPUS OM-1, Zuiko35mmF2.8 025 MILANO1979-II ラ・スカラ 音空間 パンフ幸運にもわれわれはスカラ座の4階席に開演直前に座ることができた。息を整えているあいだにアバドが登場。彼の振り下ろす一撃に観客の歓声が一瞬静まる。序幕のテュエッティでもう唖然としてしまった。なにに驚いたって「音」そのもの。えっ!こんなに俗っぽい音でいいのかぁと言うくらい奔放で色彩感充満。フォルテッシモは天井まで飽和するエクスタシー。このころのアバドは、軽いフットワークで全身にパワーを漲らせた気鋭の司令塔だった。しかし出し物が「シモン・ボッカネグラ」でこれって・・・。すこし前まで、わたしは舞台装置デザイナーをめざしていて、修行ということでオペラの舞台監督の助手もやった。藤原オペラの舞台は何回か見ているけれど「シモン・ボッカネグラ」は始めてだった。自らの不覚をちょっと恥ながら、ラ・スカラの空間に充満する、フルボディで濃厚色がこってり乗った、でも重さを微塵も感じさせない、空間が織りなす音の「饗宴」に身をまかせた。(つづく) 026 MILANO1979-III サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会 写真bansan_a スカラ座の興奮さめやらぬ翌朝、雪は降りつづいていたけれど、わらわれはサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会へ向かった。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見るためだ。事前情報によると大規模な補修工事が始まるらしく、いちげんの観光客が入れるものかどうか不安を抱きながら、雪の降り積もった狭い舗道を歩き続けた。・・・しかし、いま考えても不思議な体験だった。並ぶ行列も、後に続く人影も見あたらないばかりか、係員の気配さえない。まるで導かれるかのように「最後の晩餐」を玉座に配した部屋(元は修道士食堂)に入っていった。(つづく)OLYMPUS OM-1, Zuiko35mmF2.8。 027 MILANO1979-IV 静止した時間 写真 bansan02ssc 主とその使徒たちはひっそりと視界の中に佇んでいて、空間を共有しているのは我々二人だけだった。壁画の前には櫓が渡されており、調査中の遺跡といった風情ではあったけれど、むきだしの壁画がなにものにも遮られずに、眼前に存在していた。作業用の無骨なライティングのもと、どれだけの時間この場所に止まっていたか覚えていない。まったく音のない静止した時間のなかにいたことだけは確かだ。(つづく) 028 MILANO1979-V 時空の重さ 写真 bansan_c 第二次世界大戦末期、ドイツ空軍の爆撃で瓦礫と化したサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会。その中で「最後の晩餐」の壁面だけが、無傷のままで天に向かって屹立していた事実は奇跡としか言いようがない。この残された壁を生かすべく建物が再生された。後にこの壁画は、徹底的な復元作業により、ダ・ヴィンチがたったいま描き上げたかのような極彩を取り戻しているけれど、500年の時空の重さを背負った「最後の晩餐」の最期に巡り会えたことは、わらわれにとっての奇跡であった。そして、このときの記憶はいまも鮮明に心のなかにある。(おわり) 029 桜を撮るのは難しい・・・不思議な色だと思う。「そめいよしの」の花びら。ライトグレイに赤と青が微妙に入っている。職業的に分析すると、BL3%+M5%+C1%ってとこか。自己を主張するのではなく周囲の光を映す、むしろ滋味を感じさせる色合い。観察すると付け根付近はかなり濃厚な紅色で、これが花弁に溶け出すように浸食して、ほのかなグラデーションを形成する。風で花弁がゆれていて上手く接写できなっかたけれど、かすかに匂い立つような柔らかさを撮れたんじゃないかって。それにしても、桜祭りのド・ピンクの提灯はなんとかならんものかねえ。(写真:新宿御苑にて) 030 音の彼岸 その1 18-50mm 1186 「音楽は、空気のなかに消えていく。そして再び捕まえる事は出来ない。」これはエリック・ドルフィーの名言だけど、ライブは一期一会だ。この瞬間と未来は、演奏者と聴き手が共振する相互作用の時空間に他ならない。聴き手の意志は、音楽の展開さえ変える力を持っている。レコードは特別な音楽だ。不可侵の境界が厳然とあるのを認めたところから始めるオーディオがあっていいと思う。部屋がコンサートホールになり、演奏者がいないのが不思議・・・といった倒錯したリアリティは好まない。すでにこの世にいない人間の音楽ばかり聴いていることと関係ありそうだ(笑) 031 記憶の名前 18-50mm1131 パソコンのファイルは名前をつけて保存する。あたりまえのことなのに、最初そのことを知ったときは、なにか新鮮な思いだった。人間の記憶には名前をつけたりしない。どうやって欲しい情報を引き出すのだろう? 言語的な符合もあるだろうけれど、もっと概念的な認識パターンのようなものを照合するのではないだろうか。ものを認識するとき対象物のアウトラインから入っていくように、事象のアウトラインが半透明のフォルダに入っているんだな、きっと。で、半透明のフォルダは三次元的に芋づる式に繋がっていて、アクセス主体は超高速でこれらを巡回していると思う、きっと。・・・逆ハードディスクだね。 032 世界のすべては「振動」で作られている・・・そんなことを漠然と思いはじめた高校生のころが、基点だった。数学はとっくの昔にドロップアウトしていたので、物理学や天文学への道はあきらめていたけれど、見えない螺旋がすべての時空を張り巡らす世界を想像した。地球の重力が、人間の思考を非立体的にさせていると考えていたので、X,Y,Z軸がすべて等価の構造をつくるところから始めた、というか構造の片鱗を提示するだけで終わってしまったかもしれない。「Texture A」という作品を1977年のモダンアート展に出品し、デザイン部門の最高賞を得た。しかし、スパイラルが空間を満たし構造化されていることを、審査員は解ってくれたのだろうか。その一週間後に「Texture B」を現代日本美術展に出品した。これも入選し東京と京都で展示されたが反響は無きに等しいものだった。構造を見せたいだけなのに、輪郭を隠すことができないジレンマに陥った。これは表現としては不備な企みかもしれないと、二次元平面による表現に軸足を移したが、納得いく成果が出ないまま今にいたってしまった。(写真:Texture B) 033 音の彼岸 その2 インコ000118 音は空気の疎密波の連鎖で成り立っている。それは≒1013hpを基点とした気圧変化パターンだ。音の強弱は気圧の高低差に依存する。大気が基点をもとめて気流となるように、音波は与えられたエネルギーを消費しながら基点へ、いいかえれば無音へ収縮していく。波形の山と谷は、たえず基点に戻ろうとする大気のポテンシャルとの拮抗ではないだろうか。スピーカーが鳴らす空気はスタジオや演奏会場のそれではなく、いま目の前にあるリスニングルームの空気だ。この「場」に潜在するポテンシャルを見極めることからオーディオを考えてみたい。(不定期でつづきます) 034 伝統は精神を未来へ繋ぐ系である I 写真歌絵百番から当サイトの「録音から探る三味線音楽の世界」というコンテンツ。SP音源の聴取ができるページもあって(遅々として進行していないが)けっこうメールを頂戴する。亡き祖母の遺品のレコードを買ってくれませんか、などの依頼も多く閉口するんだ、これが(笑)。なかに吉住小三郎の長唄に感動したという嬉しい知らせがある。それも三味線音楽には興味がなかったクラシックやジャズの愛好家だったりすると、なおさら嬉しい。彼の演奏は大半の録音がCD化されていないので、ある方はSPレコードが掛かるプレイヤーを仕方なく導入したと知らせてきた。ったく、いまどきのレコード会社は・・・。吉住小三郎は、長唄を鑑賞音楽として確立させた先駆者であるが、そんなことを考慮しなくても、声楽家としてジャンルを越えた一流の存在だと思う。けして派手な演奏ではないが、受けとめてくれる人たちがいる。どうも純邦楽の関係者たちは、他ジャンルの音楽ファンにアピールする意欲に欠けているし解ってないのよね。だから、洋楽と融合させれば新しいみたいな、見当違いを繰り返しているんだなあ。暴言多謝、つづく。(写真:京都八寶堂 歌絵百番から) 035 突然ですがイラク派兵には反対なので・・・撤退の格好の「口実」ができたじゃないかと思った。6月の政権移譲はほぼ絶望的になっているし、米国大統領も秋に替わっているだろう。どの道、日本の軍隊が損な役回りになるのは分かりきっている。そこまでの視野さえ持たないのが日本政府の実情だ。いつものことではあるが。はやばやと「撤退する理由がない」などと文脈的にも誤りのある文言を言い放つ官房長官。外交はパワーゲーム、一見不利なカードが有効に機能することもある。 036 伝統は精神を未来へ繋ぐ系である II 0984 長唄でいえば、発生初期から中期以前、宝暦・明和・安永あたりがいちばん力のあった時代だと思う。「京鹿子娘道成寺」や「鷺娘」「二人椀久」などの、いまに伝わる名曲はこの頃、いまから250年も前に作られた。しかし未来永劫に続くポテンシャルはあり得ない。スタイルの確立というのは両刃の剣でもある。真のクリエーターはジャンルを考えて始める訳じゃないから、最初は混沌として猥雑なものだ。それがある段階で洗練され定型化・類型化し、やがて朽ち果てる。現代物理学でいうところの、構造が残ってエネルギーがなくなりかけた状態。生で聴くことのできる三味線音楽の大半は、伝統の周辺に散らばった抜け殻のようにしか思えない。残念ながら・・・。伝承形態が幾年の重みで破綻を来したのか。かたちを受け継いでいくことの疲弊は、ある意味で仕方のないことではあるけれど、そのかたちは「魂」の外形を示していたはずだ。だからこそ、かたちのなかに潜む「精神」を受け継いだ三味線音楽を、いま聴きたいと願っている。三味線は他の楽器に代えがたい表現力を持っているのだから。 037 くるまのカタチ「フォードは丸いライトが横に並んでいるだろ。シボレーは羽根が、ほらこんなふうに・・・」アメ車のテール識別法、近所の3歳年上のくるま好きが教えてくれた。生まれ育った府中は駐留軍の司令部があったので、高級将校の乗用車が引っ切りなしに目の前を通っていた。その数十年後、同じ場所から見た風景。あのころ想像していた未来が「今」なんだと気がついた。未来図に描かれていた「くるま」がここにある。四隅にゴムタイヤが着いているとは思っていなかったけれど。 (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 038 アナハイムの「トスカニーニ」 1279 憧憬でしかなかった、輸入オーディオ機器で武装したジャズ喫茶のリニューアルOPEN。吉祥寺FUNKEY、1970年春のことだった。2階に置かれたALTECが聴かせるニーナ・シモンにこころを奪われた。ダイレクトな実体感と色彩感。音は輪郭ではなくアーティストの実体を示さなければいけないと教えられた。そのA7-500システムに使われていたホーンがこの511B。四半世紀後に1年がかりで自作したスピーカシステムはこのホーンなしには成立しない。わずか1インチ径のスロートで500Hzをカバーする。古いALTECブランドに使われていた指揮者のイラストを組み入れたマークを、このシステムのために新たにデザインした。描かれている指揮者はトスカニーニなんだそうな。 (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 039 ちあきなおみ 演じる歌 1235 たとえば「矢切りの渡し」。永久の旅に漕ぎ出す男と女を、明確に唄い分ける。臭いといえばそうかもしれない。でもその作られた世界に聴き入ってしまう巧みさ。ほとんど浄瑠璃の世界だ。なおみさんは、いつも「その世界」の外側にいるんだね。どろどろの情念を唄っても、なにかクールな気配。男唄が上手いのもそのせい。テイチク時代の「男の郷愁」というアルバムはとくに好きだ。なかで「男の友情」と「居酒屋」は絶品ではないかなあ。そして「朝日のあたる家」。ビリー・ホリディに自らを重ねたモノオペラ「LADY DAY」で唄い、戦後の焼け跡を舞台にした「ソング・デイズ」でも唄った。極めつけはTBS-TVでオンエアーされた「素晴らしき仲間」でのスタジオライブ。これはもう壮絶としか言いようがない。仕草と歌唱が融合してパワーが8倍くらいになっている。まさに「演じる歌」の極北。なかば引退してしまった、ちあきさんですが、もういちど生の声を聴きたい。演じない「素」の、なおみさんの内面の、こころの歌を・・・。 (PENTAX*istD FA Macro 50mm F2.8) 040 AEロックって使いにくいよね マクロ1237 長らく使っていたニコンF3は、手動絞りの電子シャッターだからAEとは言い難い面もあるけれど、このときの習性がいまだに抜けない。*istDでも絞り優先やマニュアルで使うことが多い。露出補正は画面内のここらアタリを基準にしよう、という意図でAEロックをかける。ところがこのロックボタンが操作しにくい位置にあるんだよね。もっともF3なんか、とんでもない位置にそれがあって実用性はゼロだったけれど。で、シャッターボタンをタッチでAEロック、半押しでフォーカスロックってのは出来ないもんかねえ。そうすれば指をいっさい動かさないで、絞りは地面の花びら、ピントは右の親父さんてのが出来る。人間の指もそのくらいは進化しているんじゃないかと(笑)。 (PENTAX*istD FA Macro 50mm F2.8) 041 デジカメ近未来図 tiffa ラチチュードの狭さは、写真表現という立場で考えると許せる気もする。でも、フィルムがCCDに換わっただけのデジカメって途中段階ではないかと思う。デジタル機器としてのインテリジェント性は著しくローレベルだ。AFもAEもフィルム時代から進化しているとは言えない。近未来のデジカメは、人間の脳の情報収集の仕組みを取り入れるようになると思う。まず粗い情報を解析して、さらに必要な情報を取得するというプロセスを繰り返すことで、求める精緻な情報にいたるわけだ。自然界の光の明暗も、事前情報をもとに複数回あるいは分割して取り込めば、銀鉛など遙かに及ばないダイナミックレンジを獲得できるのではないか。・・・某C社とか某N社は、とっくに着手しているんだろうなあ。しかし、そのあかつきには、写真で何を表現するかは難しい局面になっているだろう。制約の解釈はすなわち表現であると言えるから。 (Canon PowerShot A40) 040 AEロックって使いにくいよね マクロ1237 長らく使っていたニコンF3は、手動絞りの電子シャッターだからAEとは言い難い面もあるけれど、このときの習性がいまだに抜けない。*istDでも絞り優先やマニュアルで使うことが多い。露出補正は画面内のここらアタリを基準にしよう、という意図でAEロックをかける。ところがこのロックボタンが操作しにくい位置にあるんだよね。もっともF3なんか、とんでもない位置にそれがあって実用性はゼロだったけれど。で、シャッターボタンをタッチでAEロック、半押しでフォーカスロックってのは出来ないもんかねえ。そうすれば指をいっさい動かさないで、絞りは地面の花びら、ピントは右の親父さんてのが出来る。人間の指もそのくらいは進化しているんじゃないかと(笑)。 (PENTAX*istD FA Macro 50mm F2.8) 041 デジカメ近未来図 tiffa ラチチュードの狭さは、写真表現という立場で考えると許せる気もする。でも、フィルムがCCDに換わっただけのデジカメって途中段階ではないかと思う。デジタル機器としてのインテリジェント性は著しくローレベルだ。AFもAEもフィルム時代から進化しているとは言えない。近未来のデジカメは、人間の脳の情報収集の仕組みを取り入れるようになると思う。まず粗い情報を解析して、さらに必要な情報を取得するというプロセスを繰り返すことで、求める精緻な情報にいたるわけだ。自然界の光の明暗も、事前情報をもとに複数回あるいは分割して取り込めば、銀鉛など遙かに及ばないダイナミックレンジを獲得できるのではないか。・・・某C社とか某N社は、とっくに着手しているんだろうなあ。しかし、そのあかつきには、写真で何を表現するかは難しい局面になっているだろう。制約の解釈はすなわち表現であると言えるから。 (Canon PowerShot A40 一見キレイに見えるけど、もともとの階調はごく限られている。他の写真と較べるとデジカメっぽいよね。) 042 フレームの存在 I 表現の次元 1308 032・・・構造を見せたいだけなのに輪郭を隠すことができないジレンマから、二次元平面による表現に軸足を移した、という話のつづき。立体物は、われわれの生きている時空間と同一のキャンバスに置かれるので「表現」としての困難さを内在していると思う。三次元の外枠をつくることは可能でも、それは二次元のフレームが意味するものとは異なる。たいていは人形ケースのように、それさえもオブジェ化されてしまう。その点、無限に広がる平面表現というものは現実的ではない。フレームという暗黙の了解が二次元のカタチを成立させていると言えるし、送り手の表現意図を明確にする「仕掛け」でもあるわけだ。ふと、オーディオの「フレーム」はどこにあるのだろうと思った。 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) 043 フレームの存在 II 彼岸の音(続編) 50mm 0744 オーディオ再生のキャンバスは、われわれが呼吸する空気そのものだから、オリジナルと同じ次元で勝負をしなければならない難しさがある。対象の次元を減らすという表現上の武器はとりあえず使えない。あるとき、対象のフレームに相当するものは「境界」であるとAUDIO DEJAVUの掲示板の論議で教えられた。このBBSに集う人たちの見識の高さに驚いた。これは立体作品でも同じかもしれないと後に思い至ったけれど、この、目に見えない境界は各人でさまざまな解釈をとれるのが興味深い。たとえば「日常と非日常」や「音と音の向こう側」であったり、「現在・過去」「自己と他者」という区切りもある。オーディオの価値を、既にこの世にいない演奏家を呼び戻す仕掛けと思っている僕は、やはり「過去と現在」という越えられない壁にとらわれているのだろうか。 (PENTAX*istD smcA 50mm F1.4) 044 フレームの存在 III ズームレンズの憂鬱 1423 オートフォーカスも苦手だけど、ズームレンズはもっと手強い。10倍ズームなんて何を撮っていいのが分からなくなる。写真を撮るということは、4次元世界から時間の断面である一瞬の3次元世界を切り出し、同時にフレームをもって2次元世界に落とし込む作業だ。対象に対してどのようなフレームを適応させるかは、シャッターチャンスと同等の意味をもっている。まあ、僕の場合は両方を瞬時にこなす技量がないだけの話しであって、だから出かけるまえにその日の使用レンズを決めてしまう。自分の目をレンズの焦点距離に似せて相手を物色するんだ。でも使ってみたいズームレンズはある。低倍率の例えば20〜35mmとか、85〜135mmなんてのはフレームの微調整としてフィットしそうな気がしている。いずれにしても3倍以上のズーム比は自分の視点を定めるのに有害だと思っている。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) 045 精緻の限界点 東浦和のトタン塀1361 このページの写真は750×500ピクセル、トータル375,000個の画素で構成されている。ウエブの画像としてはけして小さくはないけれど、目に入る事象を精密に表現するためには大きなハードルだ。遠景の木々の葉やビルのタイルの目地を克明に再現することはもちろんできない。ただし画像情報というのは、解像度と階調の共同作業だから、階調の助けを借りれば最小ピクセルより細いラインを感じさせることができる。目の識別能力が最小レベルの近傍、つまり感じるか感じないかの境目付近では、太さ(位置情報)より明度差に依存することが多いのではないだろうか。同じことはオーディオにもいえると思う。微少レベルでは階調をとりわけ重視すべきなのに、なにかにつけ解像度でものごとが決まるというような考え方がは残念だ。 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) 046 時空の所在 18-50mm 1345 「場」は磁力がなにを媒体にして伝わるのかを考察して生まれた概念らしい。それ自体は見ることも感じることもできないけれど、周囲や他者に影響を与える、いわば「情報網」の柔らかい骨組みのようなものでもあり、情報そのものでもあり、物質のベースでもある。「場所」はいうまでもなく特定されたエリアのことだけど、漢字における「場」と「場所」の使い分けは見事だなあ。アインシュタインの方程式「E=mc二乗」は、エネルギーと物質はカタチを変えただけの「同じもの」であることを示している。「場」「エネルギー」「物質」はそれぞれが空間濃度のバリエーションでしかないのか。質量が空間をゆがめることは周知として、もしフラットなテンションのない空間というものがあるとすれば、それは虚無(ゼロ)の世界だけれど、いったいどこにあるのだ。膨張しきった宇宙のなれの果てのことか・・・。 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) 047 ドラマーのタイムセンス 18-50mm 0422 ベーシストは近未来の時空に切り込んでスペースを構築する。それらをフィックスし既成事実化するのがドラマーの仕事ではないかと思う。ウイントン・ケリーの「KELLY GREAT」のフィリー・ジョー・ジョーンズを聴いていて、アート・ブレイキーのプレイに似ていると思った。ベテランリスナーだったら見当違いを指摘するだろうけど、とにかくそう感じた。ブレイキーはもっと端正で厳密で、較べればちょっとルーズで自在なフィリー・ジョーの奏法は、いっけん正反対に聴こえるかもしれない。でも、音の前後のスペース取りや、パルスを次に繋げたり断ち切ったりするドラム作法というか、彼らの意識の向かい方に共通のものを感じた。ことのついでに、ブッカー・リトルとチェット・ベイカーが似ている、なんていうとみんな相手してくれないよねえ・・・ (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) 048 マイルススタイル 20-35mm 1474 マイルス・デイビスは意志の人だと思う。強力なテンションで外側の膜が覆いつくされ、彼が望むコンセプトをカタチにしている。ぼくは30代のころまでマイルスを聴かなかった。カッコ付けすぎてると思った。膜の外側の部分しか感じていなかったんだと、いまになって分析する。だからクリフォード・ブラウンやリー・モーガンが好きだった。強靱な膜が彼らにはなく、人間の皮膚の下の実体が分かりやすかったから。40代になって、人間いろいろ思うようにはならないもんだと振り返ったとき、ふとマイルスの音楽を愛しいものに感じた。膜はステンレスのそれではなく、見えない「意志」の力そのものだと悟った。だからいま感じるマイルスは、ちょっと苦くて透明で、でも例えようもなく優しい音楽だ。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) 049 無題 1494 今日は風が凄い。窓からみえる新宿御苑の木々をスローシャッターで撮ってみた。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL 35mm, F5.6, 1/10sec, ISO200) 050 マイルスマイベスト 1493 「リラクシン」も「デコイ」も好きだけれど、ショーター、ハンコックを擁していたころの、コロムビア時代のレコードをよく聴いている。「E.S.P」「ネフェルティティ」などは、ネクストステージへの過度期といったとらえ方をされることが多い。でも、いちばん濃密な音楽をつくっていた時期じゃないかと思う。録音もコロムビア以前のヴァン・ゲルダーサウンドよりナチュラルに音楽を捉えているし、表現のダイナミクスが凄い。これらが平板に聴こえる装置があるとすれば、問題は装置にあるとあえて言ってしまおう(笑)。エレクトリック・マイルスは「音宇宙」の豊穣さで空前絶後ではあるけど、彼のプロデューサー的な局面が見えすぎるのが残念だ。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL 二重合成) 051 無題2 神社 1507 鏡像というのは、非常に限られた種類の対称性なんだということを知った。左右が入れ替っているところからして完璧な対称ではないらしい。ある部分を入れ替えて、まったく変化がなければ、それは真性のシンメトリーということだ。一般人の日常なんてのも、かなりシンメトリーな事象なのか。しかし空間や物質はシンメトリーになり得ても「時間」はいつも一方通行。入れ替えもできない。原因と結果の順序は厳然と決まっているし・・・。歴史の授業なんてのも現在から始めて、その原因を探っていく因果思考は面白いかもしれないと思った。きょうは話がまとまらないね。次回は2回連続で、イラストレーター佐藤ヒロさんのことを書きます。 (PENTAX*istD smcA 50mm F1.4) 052 (特別増刊)日本、ヤバくないか? 1525 「まさか、と思うことがいつのまにか・・・」戦略なき海外派兵、イラク人質被害者への理不尽なイジメ、大企業の迷走ぶり、輸入CDの販売禁止?、消費税率のなし崩しアップ? いまの日本、かなり危ないじゃないか。未来像の描けない政治屋が跋扈しているのに、何回選挙やっても自民党が勝つのは、いったい何なんだ。国民のレベルにあった政治家たちということか。選挙も信じられなくなると、もっと危ない事態だってあり得ると思うのだけど、その心配さえいらない日本人って((PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) 053 ミッドナイト・ブルー IMGP1404re_blue.jpg ルディー・ヴァン・ゲルダーのギター録音はどれも素敵だ。ブルーノート10インチ盤のタル・ファーロウに始まり、ケニー・バレルもグラント・グリーンも、エレクトリック・ギター(アンプ)のウオームでブリリアントなタッチを余すことなく捉えている。たとえばロリンズの「アルフィー」、ラージコンボの分厚いサウンドを、バレルの鮮烈なギターがテクスチュアを切り開いて入り込んでくる。ジミ−&ウエスの「ダイナミック・デュオ」も同じように凄い。こんなふうに採れるエンジニア、他にいないよね。次回は2回連続で、イラストレーター佐藤ヒロさんのことを書きます。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) 054 イラストレーター佐藤ヒロさんのこと その11994年の終わり頃に、佐藤ヒロさんに依頼した仕事がこれ。彼は翌年の1月に急逝してしまったので、文字どおり最後のコラボレーションだった。出光興産「バッテリー」の外装デザイン。プレゼンに何案か依頼されていたので、ヒロ氏のイラストをフューチャーしたものを作った。採用はされなかったけれど、この迫力は尋常ではないと思う。こんな自由で奔放な彼のイラストに、ぼくの硬いデザインは何度も救われていたんだなあ。こんど、ヒロさんのイラストとぼくのタイポグラフィを組み合わせたアートをやろうよ、なんて話していたっけ。「佐藤ヒロ+町田秀夫 コラボレーション」→ 055 イラストレーター佐藤ヒロさんのこと その2「ヒロさんが亡くなっていた・・・」考えたくもない予感が当たってしまった。新年を迎えてから何日も連絡がとれなくて不安が募っていた。彼のマンションの近くに住んでいる知人に、様子を見に行ってもらった結果がこれだった。年末に恒例のささやかな忘年会を曙橋のレストランでやったとき、かれは風邪をこじらせて元気がなかった。別れ際に「じゃーよいお年を、医者には行ってみるよ・・・」これが最後に聞いた言葉だった。ヒロ氏の故郷、青森県黒石市の夏祭り「黒石よされ」をテーマにした一連のイラストの試作を見たとき、ほんと、こころ踊った。彼が好きだったマティスの「JAZZ」を彷彿とさせるダイナミックなタッチ、溢れるような色彩感。これを生かすデザイン作業の日々は、いま考えれば至福の時だったんだなあ。この懐かしく切ない想いは、いまも変わらない。 056 福生 DEMODE DINER  1564 国道16号をはさんで向こう側は横田基地。DEMODE DINERは50年代スタイルの食堂だ。ちょっとパンズの風味が落ちたような気がしたけど、たまたま運が悪かっただけかもしれない。シンプルでなんの仕掛けもないところがアメリカン。塀の向こう側のUSAを眺めながら食すハンバーガーは、なかなかなもんだ。あと2回、福生の写真を続けます。 (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 057 SHOPなのにHOUSEというらしい。 16号線沿いのハウスストリート。GWでみんな遠出したのか、土曜の夕方なのに閑散としていたのが、ちょっと気になる。 (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF)058 ウルトラソニックナチュラルサウンド 1573-2 名付けて「機竜」。かの長岡鉄男氏の「ネッシー」を強化・モデファイしたR邸のオリジナルスピーカシステムだ。エンクロージャーは鋼鉄の鎧をまとった@170Kgという壮絶なもので、支えるベースは地球から生えたコンクリート。そのサウンドは途方もない質量の粒子が、光速でやって来るかのような衝撃に満ちている。でありながら人間のぬくもりを伝えるヴォーカル、表現のダイナミクスがある。長岡氏を教祖と崇める、そっくり氏は多いけれど、Rさんも製作者のAさんも、そうではなく求めるサウンドがこのカタチに結実したというところに惹かれる。流儀の異なる、わたくしにさえ魅力的な音世界。じつはちょっとばかり影響を受けはじめている。アブナイアブナイアブナイ・・・ (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) 059 伝統音楽における低音問題 1655 幼いときから西洋音楽に馴染んでいる現代日本人が、日本の伝統音楽にふれたとき「なんて甲高い音楽なんだ!」と感じるのは普通の感覚だと思う。歌舞伎で使われる音楽は長唄、豊後系浄瑠璃、義太夫が主なものだけど、大太鼓などがパルス的が使われることはあっても、西洋音楽にあるようなファンダメンタル(基底音)として仕組まれたものではない。日本が地震国であるということと関係ありそうだけど、「低音」は神の世界や自然界に属する「恐れおおい」ものなんだね。先の大太鼓の例でも、使われるシチュエーションは、天変地異であるとか、なにか巨大な存在の顕現であるとかだ。ちなみに写真の大国魂神社の巨大太鼓も、神輿を先導する悪魔払いがその役目だ。 (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 060 代数と幾何、あるいは離散と連続。大橋力の世界観 1590mono 「音と文明---音の環境学ことはじめ」(岩波書店刊)は、音の分野に限定されない広大な洞察力に圧倒される。著者の大橋氏は、情報や生体、環境を横断する学際的な研究者で、あの芸能山城組の主宰者、山城祥二氏でもあるのは御存知のとおり。600ページの本文は、音楽制作の現場体験をはじめ、知覚・意識の生体的論考から数学、物理、音楽の各テリトリーを縦横無人に駆けめぐる大橋ワールド。非言語←→言語、幾何(量)←→代数(数値)といったようなアナログ、デジタルの両翼から、記号化で失なわれるものの重要性をくり返し述べているのが興味深い。これは、お買い物ガイドのはるか先に位置するオーディオ評論でもある。<br> 写真:工事中の都立新宿高校とDoCoMoアンテナビル(PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF)<br><br> 60回を期に過去ログをHTML化します。来週は更新が少なくなるかもしれません、ってもうネタが尽き欠けてる(笑) 061 演歌、もう古典芸能でいいではないか。1594 きのう、ネタが尽きそうって書いたら「大変なんだねえ、でも続けてくれろ」というありがたい感想をたくさん戴いた。過去ログhtml化はアッという間に終わったので(画面右上から入れます)続けます。ジャズもクラシックも聴くけど、演歌だけは勘弁という人は多い。類型的な旋律と手垢にまみれた、そのくせあり得ないようなシチュエーションを歌っているのだからヘンだよね(笑)。ちかごろの演歌、とくに歌詞は悲惨な状況だ。長山洋子の「じょんから女節」はいい曲調だし、唄い込みも見事なもんだけど、最後が「♪あなたが欲しい〜」じゃーそれで終わり、気持ちが広がらない。あらたに演歌をつくる必然性って、いち早く覚えて自慢したいカラオケマニアのほかに何があるんだろう。電気吹き込みの始まった昭和3年から昭和の終わりまで、あるいは20世紀終了まで広げてもいいけれど、我々が聴いたり歌ったりするのに、十分な楽曲が残されている。これらの表現を極めるという行き方はこれからでも価値があると思う。例えば古賀政男の最高傑作「無法松の一生」。この唄に備わる包容力を十全に表現した例を聴いたことがないし。写真:解体寸前のコタニビル、かつて新宿で最大のレコードショップだった。(PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF)  062 音の彼岸 その3 無形のフォルム 1592 音楽の美の価値は、無形であるということに尽きるのではないか。日頃、カタチに囚われる仕事に勤しんでいるせいか、形のないものが持つ放射力に強い憧れがある。といいつつ、優れた音楽には厳然と備えられたフォルムが存在すると思っている。たとえばアート・ペッパー「modern art」とか、セロニアス・モンク「himself」。時空を紡いだ先にある、みえないフォルムに圧倒されるばかりだ。「抽象美」とは、このことなのかな。(つづく) (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 063 音の彼岸 その3 一本の伝送路 1137 正しく収音されたステレオ録音(けして多くはないが)は、相当の精度で空間情報を記録している。同じ意味で、モノラル録音もフォルムとそれを取り巻くスペースを一本の伝送路に託しつつ、豊かな音場を刻み込んでいる。チャンネル間の干渉がない分、ストレスの発生する度合いも少ない。逆にステレオ録音で、空間情報をなくしているケースが多いのは、テクノロジーの皮肉か。前回(062)あげたレコードは、それぞれ1956・57年制作のモノラル録音。ステレオの必要をまったく感じさせないし、モノラルでなければ伝えられない世界なのかもしれない。そういえば、コンパクトディスクが発表になった際、モノラル音源は倍時間収録ができると伝えられたけれど、あれはどうなったんだろう。 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) 空の写真が続きすぎたので、次回はワンコ2連発です。 064 有音と無音のはざまで、消えてゆくものへの慈しみを・・・ 1545 チェット・ベイカーとブッカー・リトルが似ていると書いたところ、「どこが似ているんだ、説明せよ」とのメールを頂戴した。もっともな疑問である。元来アートは、その分野のなかで完結しているわけで、音楽や彫刻が伝えるものを文章で表現することは、ほとんど不可能だ。「文学」というジャンルは、その困難を背負う自覚をもつことで表現芸術たりえているけれど、この日記の短文は文学とはほど遠いレベルなので・・・と無駄な言い訳が長い(笑)。この両人が似ていると思ったのは、「儚い夢、あるいは消えてゆくものへの慈しみを、有音と無音の間に宿らせている。そして音を紡ぐ近未来への眼差しの優しさが・・・」と文字にしてみたけれど、ちょっと違うなあ。申し訳ない。写真:イタリアン・グレーハウンド、昭和記念公園ドッグランにて。タイトで、きりりとした容姿は古き英国の単気筒バイクのようだ。。(PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 065 デジタルカメラ近未来図 その2 1544 前回041で「銀鉛など遙かに及ばないダイナミックレンジを獲得できるのではないか」と書いたけれど、実際の製品では違う局面の進化として登場しそうな気がしている。CCDのS/Nが今後飛躍的に改善されれば、シャッター速度も絞り値も対象物の光量にかかわらず自由に設定する、という方向ではないかなあ。これなら作画意図を忠実に反映できるし、露出に関するトレードオフは一挙に解消だ。たとえ自然界に近いダイナミックレンジを記録できたとしても、モニターやアウトプットのそれは飛躍的な進歩が望めそうにないという事情もある。とはいえISO25から25600までで10絞り、うーん道は険しい。写真:イタリアン・グレーハウンド(左)、大型犬にも果敢に挑んでいく俊敏性。(PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 066 大正桁? 1692 JR新宿駅南口の甲州街道路面に不可解な文字「大正桁?」撮影を開始すると役所のお方がやって来て、「大正時代に造られた橋桁なんですよお」だって。この甲州街道の陸橋に隣接して巨大バスターミナルが造られるため、歴史ある橋桁を解体するらしい。あたりを見回すと式典のような、いかにも役所主催のイベントが執り行われる気配。この「大正桁」の道路文字、きのう一日かけて、大層な機械を使って書いていたんだよねえ。意味がわからんかったけど、式典用だったのかあ。近頃仮設工事が大げさ過ぎると訝しく思っていたけど、こんな事にまで。。。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) 067 真夜中の女歌手 BARBARA IV  1120 017-019でバルバラのことを書いた同じころ、あるサイトが公開に向けた準備の佳境に入っていたはずだ。日本でたぶん初めてのバルバラのファンサイト「PLANETE BARBARA」の登場。だれも作らないなら、いつかは自分で作らなければ、と思っていたけれど、とても嬉しい出来事だった。継続、発展をこころから願って、エールを送りたい。ところでこのサイトのディスコグラフィでも1959年のレクリューズの拍手は後で入れられたものと記されている。CDの編集はオリジナルに戻っただけということらしい。12インチの日本盤LPでは、あの芦原英了氏もだまされたということか?(レコード芸術レビュー)。ぼくも70年代にNHK脇の川沿いのシャンソン喫茶で聴かせてもらったおり、あのささやかな聴衆の気配にコロリと行ったひとりだった。ところで本国のサイトでは「Les Amis de BARBARA」が充実しているし、見たこともないバルバラの素敵なショットがある。 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) 068 IN A SILENT WAY 1706 御苑に面したオフィスから新宿駅まで歩いて帰るのが日課だ。この日(17日)は空のトーンが普段と違うんで、なんとか写真に収めたかった。ぼくはフィルム時代の癖で、たいてい1枚しかシャッターを押さない。露出変えて何枚も撮るまえに、アングルを変えてしまうから、使える写真になっているかどうかは、そのときの運だ。デジタルになって一応の確認ができるとはいえ、確認したところで、こういう時間帯はあっというまに光量が変化するんで、やはり運だね。画像加工は基本的にはやらない主義だけど、カメラ側のコントラストを最低にセットしているので、黒の沈みかたは結構シビアにチェックする。まあWINDOWSマシンをデフォルトで見てるひと(ほとんどがそうだ)には黒が落ちすぎて見えるのがこころ残りではある。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) 069 普通の音 その1 1718 風邪でダウンして一週間、薬でムリヤリ熱と咳を抑えているけれど、こういうのは治りが遅い。元来、熱も咳も生体の自己防衛機能だから、薬で抑えれば症状は出ないかわり自己治癒力を放棄したようなものだ。とはいえこの年になると39度以上の熱は耐え難いものがあるから・・・って、なにを言ってんだか。というわけで布団のなかでラジオの音楽を聴いていた。大仰なオーディオ装置はだめだ。音が悪い(笑)。複雑な機械の出す音は、音と音楽のあいだにバリアをつくる。30年くらい前のトランジスタラジオだけど、つくづく良い音だと思った。この小さなフルレンジスピーカーの表現する音は、音楽を再生するのになにが大事なのかを教えてくれる。でもそれは、単純なはなしではないのだ。(つづく) (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 070 普通の音 その2 1713 カラヤン指揮のフィルハーモニア1954年録音の「タイースの瞑想曲」。ソリストはこのオーケストラのコンサートマスターであるマノウグ・バリアキン。緻密なアンサンブルとソロパートの融合と対比が見事だ。織物の横糸の一本がすーっと抜け出てソロになるような感じを、このモノラル録音はよく捉えている。思いかえすに、すごーいオーディオ装置の聴かせる音で、音楽そのものに感動した経験はあるけれど、けして多くはない。大げさでないカーステレオやシンプルなラジオから流れる音楽に、こころを奪われた思いは数え切れないくらいある。たいていは小さなフルレンジスピーカーが付いていて、当然のごとくナローレンジだ。しかし、そのことに音楽性があると考えているわけではない。周波数レンジが狭いのはハンデには変わりない。問題なのは音の「質」そのものだ。シンプルなラジオの鳴らす音は質が高いと考えている。アンプメーカーが主張する歪み率とここでいう質とは相関関係がほとんどない。「質」の内実は、複合波形を再構築する「喚起力」であると思っている。再現力ではないことに注目してほしい(笑)。(次回はちょっと長い) (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) 071 普通の音 その3 1163 音は空気の疎密波であり気圧の変化パターンであるけれど、音楽のそれは非常に複雑な合成波形だ。たとえソロ楽器で単音を鳴らそうと、その音程の基音、倍音のほかに楽器内部の共鳴音や反射音、楽器部品の共振もあるし、奏者の肉質と器械が織りなす発生音も重要だ。そして、奏でられる空間の音、すなわち複数の反射音が時間をこえて入り乱れる。これらの全体像がそのサウンドの総体であって、人間の耳もマイクロフォンも捉えるのは、それらの合成波形でしかない。これは多方向からさまざまに織り込まれたテクスチュアーの輪郭である。この輪郭が時間変化することで、織り込まれた一本の糸を解読することができる。この能力を備えているのは、アンプでもスピーカーでも鼓膜でもなく、じつは人間の脳の力そのものだ。空中に放たれた音は、マイクロフォンが捉えた瞬間からスピーカーが空気を揺らすまで、一次元的なデータ列だ。「織り込まれた一本の糸を解読する」ためにオーディオ装置にもとめられるのは、時間変化の正確な伝送であるといえる。しかし輪郭の時間変化を正確に記述するのは簡単ではない。スタティックな周波数レンジのように量的に対処できるものとは根元的に異なる問題を孕んでいる。マルチウエイスピーカーは帯域を分割して得意な部分だけを鳴らし、空間で再合成するわけだけど、この部分で時間変化の正確なトレースが破綻する危険が多い。3ウエイはクロスポイントが2つではなく3つあること、4ウエイのそれは6つあることを考えると、継ぎ目の時間軸的整合性を保つのは苦難の道だ。またマルチアンプシステムでそれぞれのスピーカーを別のパワーアンプで鳴らす場合、ユニットの能率が異なると、アンプは増幅素子のそれぞれ異なる領域を使わざるを得ない。ある音量域ではOKなのに、ボリュームを大幅に絞ると不連続な感じがしたりするのは、ここに原因があると思う。「織り込まれた一本の糸を解読する能力」。オーディオにどこまで求めるべきなのか。あるいは、そのさきの人間の問題はどうなのか、あらためて考えたいと思う。フルレンジスピーカーがなぜ人を感動させるのかを考えると、つい長く理屈っぽい話になってしまった。どうかお許しを(おわり) (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) 072 最初の1インチ 72ポイントで1インチ、けっこうきつかったけれど、こうして続けていられるのも、毎日ご来訪いただいている多くの方々のお陰と感謝している。文章も写真もまだまだ未熟だし言い足りないし、っていうか写真がメインなのに長すぎるテキストに閉口してるんじゃないかと、いちおう気にはしている。オーディオの話題は長年思っていたことを書きつらねてみたけれど、反応少なすぎ(笑)。SUMMER VERSIONは新しい切り口で復活したいと考えている。そうそう、井上陽水の話もしたいし、フォトショップ実用講座全5回ってのも構想中です。写真:「すすわたり」じゃなくて・・・ブラック・ポメラニアン、めずらしいよね。はじめて見ました。(PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF)