人間、歳を取ると体内における「記憶」の含有量が多くなるらしい。ほとんどそれだけで成り立ってしまうケースも報告されている。記憶と年輪の関係は等比級数的だから10-20歳と20-40歳、30-60歳などは等価なのかもしれない。というわけで1972-73年の音楽関連記憶6連発。ぼくは1950年生まれなので22-23歳のあいだの音楽体験ということになる。まあ、だれも興味ないだろうけど、いまのうちに書いておいて再び記憶含有量が下がる事態に備えたい(笑)(PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/07/01
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ALTECのユニットを用いた現行システムになるまで、スピーカーはイギリスをはじめ欧州製を使っていた時代がほとんどだった。画像に例えると、黒レベル近傍の階調表現を求めていたから、西海岸の健康的でちょっと脳天気なサウンドは、バルバラの陰影を再現するには不向きで、当初は途方にくれた。バルバラの歌は、それでなくとも再生が難しい部類に属する。漆黒の闇を背景に内部の豊富な階調と、微妙な色彩の移ろいを表現できなければ、神経質なだけで内に秘めた豊かさを見失う。 ここ1年は目指す表現領域に少し入ってきたけれど、そのために失っているものがあるのかも知れないと、ふと思う。そう「健康的でちょっと脳天気なサウンド」のことだ。(PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/06/30
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この週末に、若いオーディオファイル3人をお招きし、わが家の装置で音楽を聴いてもらった。いまだ調整中のパッシブハイブースト回路の定数は確定できず、おまけにこの時期の湿度の高さが加わり、チューニングはあきらめていた。3時間くらいの予定が夕食をはさんで延々8時間半に及んだわけだけど、最後にカートリッジをオルトフォンSPUに換装して、音量をごく控え目にして、そこで奇跡は起きた。バルバラ初期の「Dis quand reviendras-tu?」。消え入るヴォイスと無音との狭間に彼女の思いが隠されている。観念的には分かっていることでも、目の前の空気を鳴らして表現することは至難で、いままで聴いたことのない世界に鳥肌が立った。そして、それを受けとめてくれた人がぼく以外にもいたことが分かったときは、オーディオも結構いい趣味ではないかと確信した(笑)。(PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) |
2004/06/29
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ものには境界がある。内実とそれを取り巻く環境との拮抗する部分。しかし立体物は境界も三次元だから、輪郭を定義することは困難だ。目で見ても表面から裏面へ回り込む部分の境界は、線ではなく「面」そのもの。観察者の単一的な視線を考えなければ「輪郭」なんてものは存在しない。そもそも境界とはいえミクロ的には幅がある。てなことを考えていたら、あの超高音質CDプレイヤー「ヴェルディ・ラ・スカラ」を扱っているタイムロードの社長挨拶の一文*。こういうセンスを持った経営者が日本にいるということに驚いた。じっさい「ヴェルディ・ラ・スカラ」の表現する世界とこのテキストの方向性は見事にシンクロしている。*来月になると別の文章に変わるらしい。(PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/06/28
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抽象というものは現実のしがらみを脱しないと、なかなか捉えにくい。音楽の抽象美はわれわれが呼吸する空気を通してしか表出できない、きわめて移ろいやすいものだ。現実の世界のスケールや匂い、温度や湿度を引きずりながらも、それは忽然と現れる。例えばメンデルスゾーンのオーケストラ曲は、スコアの先の作曲家の内部に宿る夢の世界の具現化ではないだろうか。演奏者の肉体も楽器のマテリアルも、そのために奉仕しているし、彼らはその目的のために消え去ることを運命づけられている、なんてことを思ったけど、これって古い思考? (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/06/26
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動きのないものを撮るのは楽なようでいて、難しい面がある。構図とかアングルに気をとられすぎてはいけないと反省しきり。というか、写真でなにが大事なのか分からなくなってきた。つまらん写真ばかり公開してるような気がして、アサヒカメラのアマチュア投稿欄の組み写真はいい作品が多いなあと思う今日この頃。(PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/06/25
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