Photo & Text: m_a_c_h_i_n_i_s_t 幻聴日記最新版はこちらから |
|
036 伝統は精神を未来へ繋ぐ系である II |
長唄でいえば、発生初期から中期以前、宝暦・明和・安永あたりがいちばん力のあった時代だと思う。「京鹿子娘道成寺」や「鷺娘」「二人椀久」などの、いまに伝わる名曲はこの頃、いまから250年も前に作られた。 しかし未来永劫に続くポテンシャルはあり得ない。スタイルの確立というのは両刃の剣でもある。真のクリエーターはジャンルを考えて始める訳じゃないから、最初は混沌として猥雑なものだ。それがある段階で洗練され定型化・類型化し、やがて朽ち果てる。現代物理学でいうところの、構造が残ってエネルギーがなくなりかけた状態。 生で聴くことのできる三味線音楽の大半は、伝統の周辺に散らばった抜け殻のようにしか思えない。残念ながら・・・。伝承形態が幾年の重みで破綻を来したのか。かたちを受け継いでいくことの疲弊は、ある意味で仕方のないことではあるけれど、そのかたちは「魂」の外形を示していたはずだ。だからこそ、かたちのなかに潜む「精神」を受け継いだ三味線音楽を、いま聴きたいと願っている。三味線は他の楽器に代えがたい表現力を持っているのだから。 (PENTAX*istD smcA 50mm F1.4) |
2004/04/09 |
|
035 番組の途中ですがイラク派兵には反対なので・・・ |
撤退の格好の「口実」ができたじゃないかと思った。6月の政権移譲はほぼ絶望的になっているし、米国大統領も秋に替わっているだろう。どの道、日本の軍隊が損な役回りになるのは分かりきっている。そこまでの視野さえ持たないのが日本政府の実情だ。いつものことではあるが。 はやばやと「撤退する理由がない」などと文脈的にも誤りのある文言を言い放つ官房長官。外交はパワーゲーム、一見不利なカードが有効に機能することもある。 (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) |
2004/04/09 |
|
034 伝統は精神を未来へ繋ぐ系である I |
当サイトの「録音から探る三味線音楽の世界」というコンテンツ。SP音源の聴取ができるページもあって(遅々として進行していないが)けっこうメールを頂戴する。亡き祖母の遺品のレコードを買ってくれませんか、などの依頼も多く閉口するんだ、これが(笑)。 なかに吉住小三郎の長唄に感動したという嬉しい知らせがある。それも三味線音楽には興味がなかったクラシックやジャズの愛好家だったりすると、なおさら嬉しい。彼の演奏は大半の録音がCD化されていないので、ある方はSPレコードが掛かるプレイヤーを仕方なく導入したと知らせてきた。ったく、いまどきのレコード会社は・・・。 吉住小三郎は、長唄を鑑賞音楽として確立させた先駆者であるが、そんなことを考慮しなくても、声楽家としてジャンルを越えた一流の存在だと思う。けして派手な演奏ではないけれど、受けとめてくれる人たちがいる。どうも純邦楽の関係者たちは、他ジャンルの音楽ファンにアピールする意欲に欠けているし解ってないのよね。だから、洋楽と融合させれば新しいみたいな、見当違いを繰り返しているんだなあ。暴言多謝、つづく。 写真:京都八寶堂 歌絵百番から(Machinist蔵) |
2004/04/08 |
|
033 音の彼岸 その2 |
音は空気の疎密波の連鎖で成り立っている。それは≒1013hpを基点とした気圧変化パターンだ。音の強弱は気圧の高低差に依存する。大気が基点をもとめて気流となるように、音波は与えられたエネルギーを消費しながら基点へ、いいかえれば無音へ収斂する。波形の山と谷は、たえず基点に戻ろうとする大気のポテンシャルとの拮抗ではないだろうか。 スピーカーが鳴らす空気はスタジオや演奏会場のそれではなく、いま目の前にあるリスニングルームの空気だ。この「場」に潜在するポテンシャル以上にはなり得ない。それを見つめることからオーディオを考えてみたい。後ろ向きにではなく。(不定期でつづきます) (PENTAX*istD smcA 50mm F1.4) |
2004/04/07 |
|
032 世界のすべては「振動」で作られている・・・ |
そんなことを漠然と思いはじめた高校生のころが、基点だった。数学はとっくの昔にドロップアウトしたので、物理学や天文学への道はあきらめていたけれど、見えない螺旋がすべての時空を張り巡る世界を想像し、X,Y,Z軸が等価の構造を考えるところから始めた。 この概念を示すべく「Texture A」という作品を1977年のモダンアート展に出品し、デザイン部門の最高賞を得た。しかし、スパイラルが空間を満たし構造化されていることを、審査員は解ってくれただろうか。その一週間後に「Texture B」を現代日本美術展に出品した。これも入選し東京と京都で展示されたが反響は無きに等しいものだった。構造を見せたいだけなのに、輪郭を隠すことができないジレンマに陥った。これは表現としては不備な企みかもしれないと、二次元平面による表現に軸足を移したが、満足な成果が出ないまま今にいたってしまった。 写真:Texture B 1977 (Nikon F AiNikkor105mm f2.5) |
2004/04/06 |
|
031 記憶の名前 |
パソコンのファイルは名前をつけて保存する。あたりまえのことなのに、最初そのことを知ったときは、なにか新鮮な思いだった。 人間の記憶には名前をつけたりしない。どうやって欲しい情報を引き出すのだろう? 言語的な符合もあるだろうけれど、もっと概念的な認識パターンのようなものを照合するのではないだろうか。ものを認識するとき対象物のアウトラインから入っていくように、事象のアウトラインが半透明のフォルダに入っているんだな、きっと。で、半透明のフォルダは三次元的に芋づる式に繋がっていて、アクセス主体は超高速でこれらを巡回していると思う、きっと。・・・逆ハードディスクだね。 写真:横浜美術館 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/04/05 |