Photo & Text: m_a_c_h_i_n_i_s_t 幻聴日記最新版はこちらから |
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048 マイルススタイル |
マイルス・デイビスは意志の人だと思う。強力なテンションで外側の膜が覆いつくされ、彼が望むコンセプトをカタチにしている。ぼくは30代のころまでマイルスを聴かなかった。カッコ付けすぎてると思ったのは、じつは膜の外側の部分しか感じていなかったんだと、いまになって反省している。なわけでクリフォード・ブラウンやリー・モーガンが好きだった。彼らには強靱な膜が見あたらず、皮膚の下の実体が分かりやすかったからだ。40代になって、人間いろいろ思うようにはならないもんだと振り返ったとき、ふとマイルスの音を愛しいものに感じた。膜はステンレスのそれではなく、見えない「意志」の力そのものだと解った。いま感じるマイルスは、ちょっと苦くて透明で、でも例えようもなく優しい音楽になっている。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) |
2004/04/27 |
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047 ドラマーのタイムセンス |
ベーシストは近未来の時空に切り込んでスペースを構築する。それらをフィックスし既成事実化するのがドラマーの仕事ではないかと思う。ウイントン・ケリー「KELLY GREAT」のフィリー・ジョー・ジョーンズを聴いていて、アート・ブレイキーのプレイに似ていると思った。ベテランリスナーだったら見当違いを指摘するだろうけど、とにかくそう感じた。ブレイキーはもっと端正で厳密で、較べればちょっとルーズで自在なフィリー・ジョーの奏法は、いっけん正反対に聴こえるかもしれない。でも、音の前後のスペース取りや、パルスを次に繋げたり断ち切ったりするドラム作法に、彼らの意識の向かい方に共通のものを感じた。ことのついでに、ブッカー・リトルとチェット・ベイカーが似ている、なんていうとみんな相手してくれないよねえ・・・ (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/04/26 |
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046 時空の所在 |
「場」は磁力がなにを媒体にして伝わるのかを考察して生まれた概念らしい。それ自体は見ることも感じることもできないけれど、周囲や他者に影響を与える、いわば「情報網」の柔らかい骨組みのようなものでもあり、情報そのものでもあり、物質のベースでもあるという変幻自在さ。「場所」はいうまでもなく特定されたエリアのことだけど、漢字における「場」と「場所」の使い分けは見事だなあ。 アインシュタインの方程式「E=mc二乗」は、エネルギーと物質はカタチを変えただけの「同じもの」であることを示している。「場」「エネルギー」「物質」はそれぞれが空間濃度のバリエーションでしかないのか。質量が空間をゆがめることは周知として、もしフラットなテンションのない空間というものがあるとすれば、それは虚無(ゼロ)の世界だけれど、いったいどこにあるのだ。膨張しきった宇宙のなれの果てのことか・・・。 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/04/23 |
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045 精緻の限界点 |
このページの写真は750×500ピクセル、トータル375,000個の画素で構成されている。ウエブの画像としてはけして小さくはないけれど、目に入る事象を精密に表現するためには大きなハードルだ。遠景の木々の葉やビルのタイルの目地を克明に再現することはもちろんできない。ただし画像情報というのは、解像度と階調の共同作業だから、階調の助けを借りれば最小ピクセルより細いラインを感じさせることができる。例えば「044」のアンテナを吊っている細いワイヤーの表現。目の識別能力が最小レベルの近傍、つまり感じるか感じないかの境目付近では、太さ(位置情報)より明度差に依存することが多いのではないだろうか。同じことはオーディオにもいえると思う。微小音量域では階調をとりわけ重視すべきなのに、なにかにつけ解像度でものごとが決まるというような考え方は残念だ。 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) |
2004/04/22 |
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044 フレームの存在 III ズームレンズの憂鬱 |
オートフォーカスも苦手だけど、ズームレンズはもっと手強い。10倍ズームなんて何を撮っていいのが分からなくなる。写真を撮るということは、4次元世界から時間の断面である一瞬の3次元世界を切り出し、同時にフレームをもって2次元世界に落とし込む作業だ。対象に対してどのようなフレームを適応させるかは、シャッターチャンスと同等の意味をもっている。まあ、僕の場合は両方を瞬時にこなす技量がないだけの話しであって、だから出かけるまえにその日の使用レンズを決めてしまう。自分の目をレンズの焦点距離に似せて相手を物色するんだ。でも使ってみたいズームレンズはある。低倍率の例えば20〜35mmとか、85〜135mmなんてのがあればフレームの微調整としてフィットしそうな気がしている。いずれにしても3倍以上のズーム比は自分の視点を定めるのに有害だと思っている。 (PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) |
2004/04/21 |
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043 フレームの存在 II 彼岸の音(続編) |
オーディオ再生のキャンバスは、われわれが呼吸する空気そのものだから、オリジナルと同じ次元で勝負をしなければならない難しさがある。対象の次元を減らすという表現上の武器はとりあえず使えない。 あるとき、対象のフレームに相当するものは「境界」であるとAUDIO DEJAVUの掲示板の論議で教えられた。このBBSに集う人たちの見識の高さに驚いた。これは立体作品でも同じかもしれないと後に思い至ったけれど、この、目に見えない境界は各人でさまざまな解釈をとれるのが興味深い。たとえば「日常と非日常」や「音と音の向こう側」であったり、「現在・過去」「自己と他者」という区切りもある。 オーディオの価値を、既にこの世にいない演奏家を呼び戻す仕掛けと思っている僕は、やはり「過去と現在」という越えられない壁にとらわれているのだろうか。 (PENTAX*istD smcA 50mm F1.4) |
2004/04/20 |