Photo & Text: m_a_c_h_i_n_i_s_t 幻聴日記最新版はこちらから |
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066 大正桁? |
JR新宿駅南口の甲州街道路面に不可解な文字「大正桁」?? 撮影のポジションを当たっていると、どこからかお役所風の方がやって来て、「大正時代に造られた橋桁なんですよ」だって。近々、この甲州街道の陸橋に隣接して巨大バスターミナルが造られるため、歴史ある橋桁を解体するらしい。あたりを見回すと、これから式典というか、いかにも役所主催のイベントが執り行われる気配。この「大正桁」の道路文字、きのう一日かけて、大層な機械を使って書いていたんだよねえ。意味がわからんかったけど、式典用だったんだあ。近ごろの仮設工事、大げさ過ぎると訝しく思っていたけど、こんな事にまで。。。 写真:道路中央から駅(北方向)を見ている。画面の上側が歪んで見えるのはレンズのわい曲ではなくて、道路の起伏。ちょうど桁の頂点付近なのでよくわかる。(PENTAX*istD FA ZOOM 20-35mm F4AL) |
2004/05/15 |
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065 デジタルカメラ近未来図 その2 |
前回041で「銀鉛など遙かに及ばないダイナミックレンジを獲得できるのではないか」と書いたけれど、実際の製品では違う局面の進化として登場しそうな気がしている。CCDのS/Nが今後飛躍的に改善されれば、シャッター速度も絞り値も対象物の光量にかかわらず自由に設定する、という方向ではないかなあ。これなら作画意図を忠実に反映できるし、露出に関するトレードオフは一挙に解消だ。たとえ自然界に近いダイナミックレンジを記録できたとしても、モニターやアウトプットのそれは飛躍的な進歩が望めそうにないという事情もある。とはいえISO25から25600までで10絞り、うーん道は険しい。 写真:イタリアン・グレーハウンド(左)、大型犬にも果敢に挑んでいく俊敏性。(PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) 悪質な風邪にかかってしもうた。写真が撮れない。 |
2004/05/13 |
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064 ベイカー&リトル |
チェット・ベイカーとブッカー・リトルが似ていると書いたところ、「どこが似ているんだ、説明せよ」とのメールを頂戴した。もっともな疑問である。元来アートは、その分野のなかで完結しているわけで、音楽や彫刻が伝えるものを文章で表現することは、ほとんど不可能だ。「文学」というジャンルは、その困難を背負う自覚をもつことで表現芸術たりえているけれど、この日記の短文は文学とはほど遠いレベルなので・・・と無駄な言い訳が長い(笑)。 この両人が似ていると思ったのは、「儚い夢、あるいは消えてゆくものへの慈しみを、有音と無音の間に宿らせている。そして音を紡ぐ近未来への眼差しの優しさが・・・」と文字にしてみたけれど、ちょっと違うなあ。申し訳ない。 写真:イタリアン・グレーハウンド、昭和記念公園ドッグランにて。タイトで、きりりとした容姿は古き英国の単気筒バイクのようだ。。(PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) |
2004/05/12 |
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063 音の彼岸 その4 一本の伝送路 |
正しく収められたステレオ録音(けして多くはないが)は、相当の精度で空間情報を記録している。同じ意味で、モノラル録音もフォルムとそれを取り巻くスペースを一本の伝送路に託しつつ、豊かな音場を刻み込んでいる。チャンネル間の干渉がない分、ストレスの発生する度合いも少ない。逆にステレオ録音で、空間情報をなくしているケースが多いのは、テクノロジーの皮肉か。前回(062)あげたレコードは、それぞれ1956・57年制作のモノラル録音。ステレオの必要をまったく感じさせないし、モノラルでなければ伝えられない世界なのかもしれない。 そういえば、コンパクトディスクが発表になった際、モノラル音源は倍時間収録できると伝えられたけれど、あれはどうなったんだろう。 (PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC) 空の写真が続きすぎたので、次回はワンコ2連発です。 |
2004/05/11 |
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062 音の彼岸 その3 無形のフォルム |
音楽の美の価値は、無形であるということに尽きるのではないか。日頃、カタチに囚われる仕事に勤しんでいるせいか、形のないものが持つ放射力に強い憧れがある。といいつつ、優れた音楽には厳然と備えられたフォルムが存在すると思っている。たとえばアート・ペッパー「modern art」、あるいはセロニアス・モンク「himself」。時空を紡いだ先にある、みえないフォルムに圧倒されるばかりだ。「抽象美」とは、このことなのかな。(つづく) (PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) |
2004/05/10 |
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061 演歌、もう古典芸能でいいではないか。 |
きのう、ネタが尽きそうって書いたら「大変なんだねえ、でも続けてくれろ」というありがたい感想をたくさん戴いた。過去ログhtml化はアッという間に終わったので(画面右上から入れます)日記を続けます(笑)。 ジャズもクラシックも聴くけど、演歌だけは勘弁という人は多い。類型的な旋律と手垢にまみれた、そのくせあり得ないようなシチュエーションを歌っているのだからヘンだよね(笑)。ちかごろの演歌、とくに歌詞は悲惨な状況だ。長山洋子の「じょんから女節」はいい曲調だし、唄い込みも見事なもんだけど、最後が「♪あなたが欲しい〜」じゃーそれで終わり、気持ちが広がらない。あらたに演歌をつくる必然性って、いち早く覚えて自慢したいカラオケマニアのほかに何があるんだろう。 電気吹き込みの始まった昭和3年から昭和の終わりまで、あるいは20世紀終了まで広げてもいいけれど、我々が聴いたり歌ったりするのに、十分な楽曲が残されている。これらの表現を極めるという行き方はこれからでも価値があると思う。例えば古賀政男の最高傑作「無法松の一生」。この唄に備わる包容力を十全に表現した例を聴いたことがない。 写真:解体寸前のコタニビル、かつて新宿で最大のレコードショップだった。(PENTAX*istD FA ZOOM 28-105mm F4.0-5.6IF) |
2004/05/08 |