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2012/07/14
1458 官僚独裁国家であるという認識

7月13日金曜日18時34分、 出口規制をしている国会議事堂前を避け霞が関で下車した。A13出口で地上へ上がると、警察のアナウンスが喧しい。

「国会議事堂周辺は多くの人で溢れていて非常に危険なので、
 霞が関交差点を渡ったら右折してください。」と。

議事堂や官邸近辺には近づかずに遠くへ行けということか。群衆が過大に集まるのを認めないということだ。交差点を右折せずに直進したら、すかさず警官がやって来て「こちらへは行かれませんよ。」「いえ、待ち合わせしているんで・・・」理由になりそうもない言い訳だったが道をあけてくれた。
国会正門のある向かって左側の歩道は完全に封鎖されていて、路肩は警察車両が占拠している。デモの中心は右側歩道の先っぽのようで、30メートルほど歩いた地点の参加者の人垣で行き止まりになった。意外と人数が少ないと思ったが、人が来ないように規制しているのだから当然か。

金曜日の官邸前デモは先々週あたりからマスコミが報道するようになったので、倍々規模で参加者が増大することを願いながら、その場に身を置いて考えてみたいと思っていた。

それは「原発廃止を目指すにあたって、なにが有効なのか?」ということに尽きる。そもそも、国会や官邸にアピールする意味・必然があるのかどうか? いま通り過ぎてきた、財務省や外務省、経産省こそ、ターゲットではないのか。

日本は三権分立であると、これは小学生でも習うことだが、どうもそうではないらしいということも、みんな知っている。政治家が官僚に牛耳られているのは55年体制が始まって以来だろうし、民主党が政権を奪ってからはそれがいっそう顕著になり、野田首相に至って官僚独裁が完成してしまった。
最後の望みの「司法」は・・・行政のいちサービス機関に貶められているのではないか。原発事故に際しての政府や行政の不手際に、憲法の序文や第三章、十章に基づくなんらかのコメントがなかったことが、その証明だ。

という次第から、雑感としてランダムに記してみると・・・
・ターゲットは政治家ではなく官僚である
・無能な司法と正しい報道ができないマスコミの罪を問うべき
・現状の無抵抗デモは双方ガス抜きの意味が大きい
・火焔瓶は70年安保の挫折につながるが、せめて警察のバリケードを突破する気概は必要

敵は狡猾で小賢しく、容易に倒せる相手ではないが、彼らに日本の命運を握らせるわけにはいかない。

・・・クーデター、時の政権潰せても、官僚組織は残りそう・・・(^_-)-☆



2012/07/09
1457 続・伝統芸能のパラドックス

伝統とは、カタチではなく精神のありよう、なんてカッコつけて書いたけれど、本来、時代と共に変わっていくのが「伝統芸能」の正しい姿だと思うのだ。

ところが、あまり変わらなかった。たぶん(笑)
とくに能楽、文楽人形浄瑠璃・・・
能楽は、誕生からそれほど歴史を重ねないうちに、時の権力のお抱え芸能になって、生活はとりあえず保証されたから、カタチの継承に力をそそぎ、現在もほぼ完全なカタチで引き継がれている。たぶん。

歌舞伎、文楽、落語などは、パトロンはいたにしても、自力で200年やってきた。その間、民衆にとって一級の娯楽だったわけで、そのために飽きられないよう、さまざまな変貌は良しとされてきた、というか必然だったのだろう。

ところが、戦後になって娯楽が多様化されてくると、新しい芸能と差別化させるために「伝統芸能」のカタチへの回帰が重視されてきた。とはいえ、このカタチは変遷してきたものの、ある時代のスタイルなわけで一種、矛盾を抱え込むことになった。

とくに、文楽は歴代の当事者たちが生真面目だったせいか、あらゆるスタイルが伝承、記録(文献等)されていて、例えば、ある演目のこの三味線のフレーズは「西風*」で行うというような伝承(規定)がある。
*「西風」は特定の半音をやや高めにシフトさせて情景に色をつけるetc...

当事者だけでなく、観客も評論家も娯楽というより学問的なアプローチをするのでそこにも大きな問題があったのだが・・・
橋下市長さんの言っている、今の聴衆を呼び込む努力というものが何処にあるのか、解決困難な問題ではある。



2012/07/07
1456 伝統芸能のパラドックス

大阪の橋下市長が、「文楽なんか二度と見に行かない」と言って波紋を投げかけたが、その後の氏のコメントを読むと、「大衆に足を運ばせる努力、姿勢が当事者に皆無では税金からの補助は難しい。」 というのが真意のようで、個人的には説得力がある意見と思っている。

文楽は人形浄瑠璃として長い歴史を誇るまさに伝統芸能だが 、現代人、とくに若い世代にはなかなか理解しずらい面が多々ある。 とはいえ、補助金目当てで、大衆迎合すれば良いかというと、これはあり得ない。 何故なら・・・伝統芸能だから。 文楽協会が市長さんとの面談を避けたとのことで、 これは解決策がないことを当事者たちが知っているからではないかと思う。

伝統というものは「カタチ」ではなく、精神のありよう、 過去を引きずり未来へつなぐ意志そのものなので、急に方向を変えたりはできないのだ。

もともと人形浄瑠璃は歌舞伎の成り立ちと同じように、河原で人を集めて催していた演劇。 それがあるとき、国家指定芸能になり国や自治体の補助を受けるようになる。 その時点で芸能としてのオーラの大半を失ったのだと思う。 ただ、伝統の勢いが、その後も名人を輩出し続けたので、 表現芸術としては高度で精緻なものになった。戦後から15年くらいがそのピークであったが、 昭和の終わり頃に名人達が続々と天に召され、いまはごく少数の名手と凡人多数が実情。

厳しい言い方になるが、消えてゆく芸能で良いではないか。 エネルギーがなくなって構造だけが残るのは現代物理学だけではないのだ。

個人的に、文楽に興味をもったのは、高校の文楽教室だから45年くらい昔のはなし。 人形劇としての舞台には、あまり興味を持てなかったが 、セリフ(文楽ではコトバという)とト書き的解説(文楽では地合という)の叙事部分と、 叙情に相当する「地色」などを一人で語り分ける太夫。 さらに太夫に寄り添いながら、物語の時間と空間を司る三味線。 このユニットを義太夫節というが、 その凄さにノックアウトされたのだった。音楽としても空前絶後だと思った。 三味線のフレーズはE ・クラプトンのブルースに匹敵するほどの放射力!

このときの太夫は現在の義太夫語りの最高位に位置する竹本住太夫、 三味線は戦後屈指の名手、竹沢弥七だった。 高校生向け全国巡業にこれほどの名手が出ていた。 というより、 この名手あればこそ、ロックしか興味のなかった高校生にアピールしたのではないだろうか。

聴衆を増やす努力。これは、聴き手に合わせるのではなく、 ジャンルを超えたパワーを送ることだ。 現代語に変えたり、音楽をアップデートしたりしてはいけないのだ。



2012/06/27
1455 自作オーディオについて、ちょっと長い話(改訂)

自作スピーカーシステム "AirsEdgeOne"。2年の準備期間と6か月の工作を経て1996年夏に完成したオール・ホーンローディングタイプだ。その半年後に計画を開始した管球式プリアンプ。MC型カートリッジをダイレクトに増幅するフォノイコライザーは、CR素子をDCバイアス下に置いた無帰還方式。カタチになったのは1999年の暮れであったが、メーカー製プリアンプと選手交代できたのは2003年ごろだった。トータルでこの間ほぼ10年である。寝ても覚めてもこれらの機器を考えていた。寝る前に設計図(回路図)を確認し、夢うつつの中で試行錯誤という日々だった。

もともと文系(じつはその他系)の人間だから、基礎を学ぶところから始めた。スピーカー理論、増幅回路、実装技術etc... ちょうど40代初めから50歳を超えるころまでの期間である。本来なら仕事盛りであるべき人生の重要期をオーディオ三昧で過ごした。それは後になって大いに悔むことになる。これらの機器の作成に費やした金額は軽自動車一台程度であったが、時間給で換算したらいったいどれほどのものだろう?怖いから計算しないが、ハイエンド機器を購入できる規模なのは間違いない・・・、という話ではなく(笑)この黄金期の努力を本業のデザインに振り向けていたら、ひとかどの存在になっていたのではないかと反省していたのだ。

今朝方、マッサージ椅子に体を沈めながら、グールドの「ゴールドベルグ変奏曲」を聴いていた。この数日、全体のゲイン配分を考え直し、EQ機材の最適位置を再検討したので、その成果を確認したかったのだ。普段はアナログディスクで聴くことが多いこのアルバムをCDで聴き、ほぼ理想ではないかと思えるパフォーマンスに納得した。鋭角(俊敏)でありながらしなやか(音楽の時間が繋がっている)強打鍵の浸透力と彼の呻きが違和感なく共存している。

こんな分析をしながら、あの10年のことを思っていた。失われた10年ではなかったかもしれない、と。今の体力で "AirsEdgeOne" を作る根性はないし、MT管周辺のパーツ付けをする視力にも欠ける。一方で本業のほうは問題なくで出来ているし、充実もしている。あの10年といまの10年を入れ換えただけじゃないか!当時は仕事で使えるようなデジタルカメラはなかったし・・・グールドの響きの静かな光彩とともに急に目の前が明るくなったような気がした。



2012/06/26
1454 セシウム街道をゆく

スタンフォード大学教授 西 鋭夫氏、気迫のこもった文章。必読です。
http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1366.html


※カレイドスコープさまのサイトをリンクさせていただきました。






2012/06/25
1453 再びカラーモードについて

デジタルカメラで撮影した写真を商業印刷で用いる場合は、CMYK変換直前まではAdobeRGBで通している。モニターがAdobeRGBモードを表示できるのなら、印刷された状態をほぼ把握できる。問題はウエブ用途の写真である。こちらはsRGBというカラーモードで統一されているはずなのだが、昨今の液晶モニターではこの規格より拡大された色域を表すケースが多い。この場合、正しく色域制限を行えばsRGBを忠実に再現できるが、ハード的に彩度コントロールができない機種が多いし、ユーザーも鮮やかな色調を好む傾向があるから、たいていは、ハレーションを起こしたような極彩色の写真を見せる羽目に陥る。

この幻聴日記に掲載している写真はsRGBモードオンリーだが、近年はノートPCで確認した上で再調整を施す場合が多い。蜷川実花さんの写真ようなトーンを求めないかぎりは・・・

Nikon D800 + AiNikkor 35mm f1.4



2012/06/21
1452 NANAO ColorEdge CG275W

5年ぶりに仕事用のモニターを入れ換えた。27inch 2560/1440pxのAdobeRGB仕様だ。
この機種は簡易測定器が内蔵されていて自動キャリブレーションを行えるのだが、望ましい結果は得られなかった。仕方なく、以前の機種(CG241W)と同様に目視で調整を行っている。
調整目標はプロセスインキの色再現、それとデータとその印刷物がどれだけ似るか、それだけだ。もとより、発光体である液晶画面と反射光で見る印刷物が、同じになることは原理的にあり得ず、容易な作業ではない。この段階(写真)から、色温度を上げないで青系をもう少しビビットにするのが当面の目標。黒レベルはもう少し締めたいところだが、検証用途なのでこんなものだろう。



2012/06/08
1451

所有するNikkorレンズがすべてMFということもあって、D800の出番がなかった。36Mpxの真価を発揮させる自信はないが(笑)湿気を帯びた質感に驚いた。こういうシチュエーションでは800Eより好ましく、まさに超微粒子フィルムのテイストではないだろうか。
Nikon D800 + AiNikkor 35mm f1.4




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