803 レコード、その真実をだれも知らない。
 再生というものは、すでに完了した事象を甦らせる行為だ。レコードのなかの音楽は永劫不変のはずなのに、昨晩、越路吹雪を聴いていて、同じ音楽が違って聴こえる不思議さを考えていた。多面体をさまざまな断面でしか理解しえない自分のキャパシティの少なさに由来するのか。くり返し聴くことで、あるいは年月を経て変化した感性がもたらす多面性なのか。いずれにしてもレコードを聴くという行為は、生演奏を聴くことととはまったく異なる価値をもっていると痛感した。だからオーディオにめり込んでしまうのね(笑) ・ 音は儚い現象だ。聴く場所を変えるだけでサウンドバランスは激変する。原音(忠実再生の場合の基準という意味で)というものは録音と再生の諸条件を厳密に保たなければまったく意味がないから、数多ある古今東西の音楽に原音を求めるのは無意味だという思いはいまも変わらない。 ・ 生の音、とは何かという興味深い議論があるところで始まりそうになったのだが、結局のところ話しは噛み合わなかったように思えた。みなさん名うてのオーディオファイルだから生音を「再現」するというスタンスになるのは当然だ。そこでは楽器とマイクロフォン、あるいはスピーカーとリスニングエリアの距離関係や残響問題といったテクニカルな、そして限りなく困難な障壁をいかに超えるかという議論になっていくのは自然だろうし、まさに、そのような議論なくしてはオーディオ技術の進化はなかったわけだし・・・。 ・ ぼくはというと「生」と「再現」はハナから相容れないものと思っている。空気だけを介して演奏者と聴き手が同じ時空を歩むことが生を聴くということであって、行為あるいは意味が重要なのだ。万が一、瓜二つの相似形が完成したとしても、それは別物だ。生の音とは姿カタチのことではない。(注:音は映像と違って原本と同じ次元で提示されるから始末が悪いのだ) その際、サウンドクオリティは重要ではあるが別の問題なのだ。そう考えるとオーディオへの取り組み方も違ってくる。まぁ、未完の現在進行形でしかないのですが・・・ぼくの場合はね。 |