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2006/12/26(改訂)
803 レコード、その真実をだれも知らない。

再生というものは、すでに完了した事象を甦らせる行為だ。レコードのなかの音楽は永劫不変のはずなのに、昨晩、越路吹雪を聴いていて、同じ音楽が違って聴こえる不思議さを考えていた。多面体をさまざまな断面でしか理解しえない自分のキャパシティの少なさに由来するのか。くり返し聴くことで、あるいは年月を経て変化した感性がもたらす多面性なのか。いずれにしてもレコードを聴くという行為は、生演奏を聴くことととはまったく異なる価値をもっていると痛感した。だからオーディオにめり込んでしまうのね(笑)

音は儚い現象だ。聴く場所を変えるだけでサウンドバランスは激変する。原音(忠実再生の場合の基準という意味で)というものは録音と再生の諸条件を厳密に保たなければまったく意味がないから、数多ある古今東西の音楽に原音を求めるのは無意味だという思いはいまも変わらない。

生の音、とは何かという興味深い議論があるところで始まりそうになったのだが、結局のところ話しは噛み合わなかったように思えた。みなさん名うてのオーディオファイルだから生音を「再現」するというスタンスになるのは当然だ。そこでは楽器とマイクロフォン、あるいはスピーカーとリスニングエリアの距離関係や残響問題といったテクニカルな、そして限りなく困難な障壁をいかに超えるかという議論になっていくのは自然だろうし、まさに、そのような議論なくしてはオーディオ技術の進化はなかったわけだし・・・。

ぼくはというと「生」と「再現」はハナから相容れないものと思っている。空気だけを介して演奏者と聴き手が同じ時空を歩むことが生を聴くということであって、行為あるいは意味が重要なのだ。万が一、瓜二つの相似形が完成したとしても、それは別物だ。生の音とは姿カタチのことではない。(注:音は映像と違って原本と同じ次元で提示されるから始末が悪いのだ) その際、サウンドクオリティは重要ではあるが別の問題なのだ。そう考えるとオーディオへの取り組み方も違ってくる。まぁ、未完の現在進行形でしかないのですが・・・ぼくの場合はね。



2006/12/24
802 イブは越路吹雪

LDで70年の日生劇場ロングリサイタルと85年のミュージックフェアを視聴しました。年末になると、どういうわけか越路吹雪を聴きたくなるのです。以前からとても好きな女性歌手のひとりではありましたが、あらたな感慨をもって見入ってしまいました。自分の年齢が彼女の没年齢と同じになったせいなのか、初めて彼女の歌世界に同じ地平で向き合えたような気がしました。偶像ではない原寸大の、それも愛おしく一生懸命な表現者として目の前に現れたことに驚いたわけです。

70年の日生劇場リサイタルは、いわば彼女の上昇のフォースがいちばん強い時期でもあったと思います。前年の初ロングリサイタルは大成功のうちに幕を閉じましたが、このときの初日の舞台が2枚組LPとして残されています。初演された「人生は過ぎゆく」の緊迫感は例えようがないほどで、ぼくの愛聴盤でもあるわけですが、それが翌年(70年)になると聴衆への強力な放射力を備えるようになり、声質というか表現のダイナミックレンジの広さは日本の歌手で例えるものがないほどです。このLDでは、「失われた恋」「人生は過ぎゆく」そして「愛の幕切れ」と絶妙な連携で繋がれています。

越路吹雪はドラマチックな歌手と評されますが、彼女の凄いところは、表現の背後に自分自身がいつも在ることではないでしょうか。そこが、ちあきなおみの黒子に徹した透明な自我と大きく隔たる部分ではないかと、理屈っぽく考えたりします。

もう一方のミュージックフェアのオンエア編集版の最後は1985年4月に収録されたもので、じつはこの年の11月に彼女は亡くなっています。化粧の奥のコンディションの悪さは隠しようがありませんが、放たれた声の生命感は尋常ではありません。「別れて愛が」「アプレ・トア」さらに「妻へ」 最後の壮絶でしかも底なしの豊かさ・・・ チャイコフスキーの「悲愴」の終曲アダージョ・ラメントーソになぞらえても言い過ぎではないでしょう。



2006/12/20
801 ちあきなおみのコロムビア時代

日本コロムビア時代のちあきなおみ、ってあんまり買ってない。例の「喝采」にしてもね。巧いとは思うが、上手さが前に出てしまうところが後年の境地との違いだ。
それが、ビクター、テイチクと移籍するごとに凄みを増していく。テイチクの「男の郷愁」なんかは鳥肌・落涙もんの傑作アルバムだったが、これはなぜか廃盤のまま。(全集にも"居酒屋"などは収録されてない)

コロムビア時代のものは、現在かなりのものが入手可能なので、聴いていなかった初期のアルバムを3点ばかり入手した。

・1976年「そっとおやすみ」平岡精二、なかにし礼などのムード歌謡集
選曲に一貫性があるが、歌の器用さが逆効果だったように感じる。録音は優秀。このエンジニアは名人だ。

・1977年「ルージュ」中島みゆき、井上陽水、因幡晃のカバーアルバム
なんと「氷の世界」も入っている!ただし、歌の世界の外で勝手に歌ってる印象大。世代的には近いなずなのに、やはり相容れないものを感じた。

・1978年「あまぐも」友川かずき、河島英五の作品集
有名な「夜を急ぐ人」のアルバムヴァージョンが入っている。これはシングルヴァージョンより好印象。ありゃやりすぎよねぇ(笑)しかし、アレンジを当時風にしちゃったおかげで、いま聴くともろ古い。

・・・というわけで
コロムビア時代は彼女的には苦しい時代だったと思う。レコード会社はセールスにつながる演歌で行きたかったのに、彼女は違う世界を求めた。でも結果はでない、というか最後のほうで出した超ド演歌「さだめ川」「酒場川」が素晴らしいのは皮肉だなぁ。



2006/12/18
800 続・10mm厚ウレタンフォームが・・・

簡単に収まってしまった。外見上も問題はないと思う。

ここのところ頻繁に使うテストソースは
・シノーポリ+ウイーンフィル、ヴェルディ序曲集
・イタリア合奏団、ドニゼッティ弦楽四重奏曲
・ソニー・ロリンズ、サキソフォンコロッサス
・ペギー・リー、ベイズンストリートイースト・ライブ
・浅利みき+木田林松栄、津軽じょんがら節(中節)

ほんとは、こんなに聴かなくても分かるのですが、いちおう念入りに(笑)

大音量では高域がややナマっぽい(悪い意味で)が女性ヴォーカルのキツさやザラッぽさは激減。予想に反して低域の再現力がかなり向上している。エッジ部分に相当する高域のボケが減少したせいか?
小音量リスニングでは、圧倒的にナチュラルになった。
ますます普通のハイファイに傾斜しているみたいだ・・・

問題は大音量(ピーク115dBくらい)での一体感か。しばらく、このまま様子をみてみようと思います。



2006/12/17
799 10mm厚ウレタンフォームが・・・

東急ハンズのマテリアル売り場、
二液混合型ウレタンスプレーを求めた帰り道、名前が似ていてカタチはまったく異なるウレタンフォームに目がとまってしまった。

オーディオfix宣言をしたばかりなのに、またぞろアイデアが浮かんだ(笑)
ウーファーホーンにこれで蓋をしてみようと考えた。

わが家のALTEC-515Bはネットワークなしのスルー使いだから、メカニカルフィルタがあるとはいえ、高域の漏れは尋常ではない。802Dと重なる帯域は音の滲みとして関知できるもののそれが「悪」なのかどうかは単純には結論が出ない。10年前にも数々の対策を試みて、そのほとんどを却下してきた。
音の勢いを殺いではならないという原則があることと2ウエイのまとめ方として、双方を滲ませて融和させる手法が好きだという理由による。

でも、あれから10年経過して当時のサウンドから大幅に変化しているので新たな発見があるかもしれないし・・・。

事務所に戻って、このウレタンフォームをボーズSPの前に覆って試してみると、中高域が想像の範囲内で減衰することが分かった。これは使えるかもしれない(つづく)



2006/12/13
798 "20 years later"

バイ・ワイヤリング問題も解決して、現状でFIXというオーディオライフが戻ってきた。
AUDIO BASIC誌付録CDの金管五重奏クリスマス名曲集を聴いていたら、娘が「そんなの聴くんだったら、あれ掛けて。」
"あれ"で分かってしまうところがやはり親子か(笑)あれとは娘が2歳のころに買ったクリスマス名曲集のことで、島田祐子と東京少年少女合唱団のCDだ。ジャケットに子供向けと表示してあるが、キャロルやゴスペルもナンバーに加わっていてオトナが聴いても十分楽しめる演奏になっている。

聴き馴染んだ音盤を長いブランクのあとに掛けると、つい意識がサウンドクオリティの新旧比較に向かってしまうのは、やはり病か。しかし良い音になったもんだと嬉しくなった。当時の装置はフィリップスCD34にラックスL550、スピーカーはタンノイHPDレキュタンギュラーヨークで、クラシック系はそれなりに良い音であったのだが、いまここで響いている音は数段上をいっている。それに、こんなにも素晴らしい録音だとは気がつかなかった。声質のばらばらな子供たちのハーモニーが妙にリアルで、空間でモアレを起こすようなざわめいた響きが、インティメートな雰囲気をいっそう盛り上げた。

さわりだけと思っていたのに、つい全曲聴き通してしまった。オーディオのこともそうだが、我々家族のけして平坦ではなかった20年の生活を思い起こしてしまい、ちょっとウルウルになりそう。。。こりゃヤバイぞぉ。



2006/12/09
797 絶品!高尾懺悔

さきにご案内した、紀尾井ホールの演奏会。
ぼくは創作邦楽ってものが、さっぱり理解できないので、アタマの創作二曲はほぼ微睡みのなかにいた。っていうか聴いていてなにか恥ずかしくなるのよね(笑)
目的は最後の「高尾懺悔」だけ。

この曲は、数多くの長唄のなかでもいちばん好きな作品だ。
若かりしころ、今回のリサイタルの師匠に唄と三味線を習っていて、24歳のとき止める決心をしたのだが、最後にこちらからリクエストして教えてもらったのが、この曲だった。

冒頭の三味線の前弾きは、聴かせどころなので、思い入れたっぷりに陰々滅々っぽくなるところを、今回、至極アッサリ入ってきた。それも二挺のユニゾンで。
立唄の宮田哲男氏も重くならずに、でも軽いわけじゃなく入魂の唄いっぷり。年老いても色気がある。このコンビの演奏は数え切れないくらい聴いているが、今回は最高の成果と思った。
全曲三下がりでケレンのない楽曲なので、テンポ配分を誤ると間延びしてしまうが、さすが政太郎氏、音のドラマをきっちり作った。

この曲は戦後すぐに録音された、芳村伊四郎(のちの伊十郎)と稀音家六治(のちの山田抄太郎)の演奏が有名なのだが、遊女高尾の亡霊の儚さの表現では、今日ここで聴いた演奏が勝っていると確信した。
それにしても2006年の日本で、形骸化してしまったと思われる古典三味線音楽が、このような深い音楽表現をしたことに驚かずにはいられない。



2006/12/04
796 基準レベルにおけるレンズとCDの共通性

近年のCDの録音レベルの高さ(クオリティのことではなく
音圧のことです)は、ピークマージンの少なさと同義だと思っているが、カメラレンズもそういう傾向にあるようだ。

とにかくクッキリ明るくというトレンドなのか、シグマ17-70mmにもそういう匂いはあるが、キヤノンEF-S17-85mmはいっそう顕著で、驚いた。中間調にしっかりしたトーンなければ、伸びやかな光彩を表現できないはず。
トーンカーブのミディアム域を下げることで対処したけれど、こりゃダメだわ(泣
http://www.vvvvv.net/2006/12_1/

面白いのは、最近のCDを聴いて感じることと似ています。ピークが伸びないくせにいつも明るい。。。




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