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2007/03/13
819 早瀬文雄の過去・現在・未来

ビル・エバンス「You Must Believe in Spring」、キース・ジャレット「ケルンコンサート」
いずれも震いつきたくなるような美音だ。プリズムの分光で見られるような純度の高い原色が彼らの右手のパッセージに宿っている。そして鮮やかではあるがやや距離感を伴う節度をもった音場が、タワーマンション40階の眺望と見事に溶け合っていた。

早瀬文雄の存在は、ListenViewというオーディオ雑誌で知った。もう20年も以前のことだ。センシティブな文体と自身の来歴を重ねるような音の語り口に、故瀬川冬樹氏のオーディオ評論に繋がるものを感じて大いに興味をひかれた。ぼくはあるときAE-1というスピーカーを使っていたのだが、これははっきり言って早瀬氏の文章のなせる技だ(笑) 結局のところ上手く使いこなせなかったというか、再生音響において求めるものの相違というか、そのスピーカーは3年くらいで手放してしまうが、曖昧なもの、付帯的な雑味を徹底的に排除した純度感に、ある種の畏敬の念を持ったのは事実だ。

今回、氏が京都へ転居するにあたって、この場所の最後の響宴ということでお招きいただいた。ジャーマンフィジックスのベンディングウエイブDDDを中心に据えたオリジナル3ウエイスピーカーは、意図したものかすべてドイツ製ユニットで、これをアキュフェーズの6CHパワーアンプでスマートにマルチドライブさせている。とはいえ、DDDの内部イコライジングをパスして、デジタルディバイダーとパラメトリックEQで対策するあたりの力技は余人には困難な領域だ。

最初の一音が鳴ったとき、あっ!これはAE-1 だと思った。もちろんスケールはそれをはるかに凌駕している。その純度において、である。F特的なスペクトラムバランスは低域の量感をやや削ぎながらも、中域以降の欠落感をまったく見せないチューニングだ。やや色彩感を抑えたストイックな音づくりという事前の想像は裏切られた。しかるべき色を十全に備えながら必要に応じて顕わにする敏捷性が凄い。シンフォニーでは主題はもとより背景にあたるパートの動きと色の移ろいに耳を奪われた。女性ヴォーカルに至っては禁欲的どころか、エピキュリアニズム的側面を垣間見せていた。
低域は、これはAE-1にも共通するのだが、不得意なのではなく彼自身がこの領域にとりわけ厳しいのだと気がついた。制御でき兼ねる領域を徹底的に沈めていく作法なのかもしれない。たぶん、ここは現在進行形の部分ではないだろうか。

トータルで3時間くらい聴き続けそのあとの3時間は聴きながら喋った。氏の履歴は自身のHPで詳細かつ赤裸々に語られているから、ほとんど話題にしたことのない自分のオーディオ履歴を披露した。

オーディオはいつだって現在進行形だと思っている。過去の集積の断面が"いま"という瞬間であって、そのいまも、過去とともに束ねられて未来へ繋がっている。そういう意味でこのオリジナル3ウエイスピーカーがこの先どのような進化の道を歩むのかとても興味がある。出来うることなら、ハイエンドチックな既製品に転ばないで、茨の道をゆっくり歩んでいただきたいと願っている。それだけのポテンシャルを持っているということを、今日はしっかりと確認させていただいた。



2007/03/10
818 CPA5000

英国CHORD社のフラッグシッププリアンプ。
筐体の質感、内部LEDが照らす幽玄美。これをレイヤー合成なしに一発撮りで表現したいと考えた。
通常の撮影光源と較べるとはるかに低照度の内部LEDとアルミニュームの階調を同時に表現するため、超低輝度ライティングの仕掛け作りから始めた。はるか昔、舞台照明の勉強をしていたころ、大庭三郎さんのひと言を思い出した。・・・黒いライトが欲しい!



2007/03/02
817 聴き逃していたのか

チャーリー・ヘイデン&パット・メセニーのデュオ「beyond the Missouri Sky」もう10年も前のアルバムだ。感傷的で似た雰囲気の曲が続くので最後まで聴きつづけることはあまりなかった。2曲目の「Our Spanish Love Song」ばかり聴いているその程度のファンでしかなかった。

昨晩、なにげなく「Two for the Road」「First Song」をかけていて、わが耳を疑った。いままで何を聴いていたんだと複雑な気分になった。これは過ぎ去った日々(青春)へのレクイエム、そして限りなく静かな慟哭の歌ではないか。こころのいちばん深い部分へ入り込んできて共振している。目の前のスピーカーも替えたばかりの低域ケーブルも消え去っていた・・・といいたいところだが、高域のケーブルをどうしたものか、などと・・・イカンイカン(笑)



2007/03/01
816 続・ウーファーケーブル

モゴモゴの音と思いきや、悲観するほどでもなかった(笑)

中高域のケーブルはそのままなので、当然ながらバランスは崩れた。相対的なものと思うが高域がややキャンつく癖を感じた。なので昨年末に施したウーファーホーン出口のウレタンを撤去してみた。対策ではなく問題点を際だたせるためだ。結果、この低域用ケーブルを使うには高域用のそれをもっとキャラの少ないものに変更する必要がありそうと判断した。現行のオルトフォンSPK3100silvetには確かにそのような傾向がある。

・・・ところが、さまざまな音楽を流し続けていくうち、4時間目くらいからか、何かが変化し始めた。ウーファー用ケーブルが変わったからといって、低音だけを判断できる耳を持ち合わせていないから、全体的な印象になるが、2ウエイの乖離感がなくなっている。音像はたしかに太いが、茫漠としたものではなく、芯の太さであるところが救いだ。

クラウディオ・アラウの晩年のバッハをかけてみた。このPartitaのレコーディングのあと彼は88歳で亡くなっている。ミネラルをたっぷり含んだ地下水がこんこんとわき上がるような自然で生命力のある演奏だ。
"滋味あふれる"なんて安直に表現するのは間違いだと気づいたのは、抑制を効かせながら完璧にコントロールされたその左手の音によってだ。このCDは何十回となく聴いているのに思い至らなかった。もしや、このケーブルの工業用途の防振構造が寄与しているのか・・・

このALTECのオールドユニットを用いた自作システムは、近年になって対象音楽はかなりオールマイティになって来つつあったが、唯一納得できない部分はグランドピアノの低弦の粘り感だった。これをナローレンジの弊害と考え、じつは低域拡大の方策をめぐらしていた。高能率ウーファーに加える装置としてはアクティブウーファー以外の選択肢は少ないが、当初からその手法は考えていなかったので計画は難航した。解決策として負荷インピーダンスの落差で能率をかせぐ方法を考えた。ただ、着手するまえにケーブルに浮気してみようかという程度のノリだった。

というわけで、この極太ケーブルはめでたく本採用になり、ワイドレンジ計画はまた遠のいた。エージングと高域のマッチングが上手く行けば、ナローレンジのまま一段上のステージが待っているかもしれない。

写真:床に置かれているのがいままでウーファー用に使っていたオルトフォンSPK300



2007/02/27
815 倉茂電工製 600V耐震ケーブルVCT531

0.45ミリ銅線88本撚りの二芯! 本来は移動発電車とか、工場の重機の電源供給に用いるらしい。これをパワーアンプとALTEC-515Bの間に用いたらどんな世界が現れるのだろう。イカンとは知りつつも、やってみなきゃわからんという声が聴こえたような・・・

直径は実測で20.5ミリだった。想像以上にしなやかで、しかもゴムっぽいグニョグニョ感はない。
これ、ウーファー以外にどんな使い道があるんだろう、とさえ思った(笑)



2007/02/26
814 極私的、道元プロジェクト その2

石井恭二著「正法眼蔵の世界」全5巻(河出書房新社刊)のうちの第2巻である。
同じ著者による現在語訳シリーズもあり、そちらの方が数段読みやすいし廉価なのだが、初めに原文を配したこのシリーズに惹かれた。訳文はやはり訳者の世界観というフィルタを通した表現であり、困難といえども原文の気配は絶大なものがある。時間がかかっても原文解読を目標にしたい。

この第2巻では、正法眼蔵全75節のうち17から34節を収録している。第18-20節の「観音」「古鏡」「有時」、そして第24節「画餅」が含まれているところが魅力だ。
「観音」では言葉の表す世界の限界と広さを、「古鏡」は見るものと見られるものの時間を超えた関係性を、そして正法眼蔵のなかでも白眉と思われる「有時(うじ)」は時間の発生と物事の存在、認識を、おなじく「画餅(わひん)」は言葉、図像、認識、時間を統合する世界観、価値観を展開している。(ように思える・・・)

後日、思うことを書き留めたいと思っている。「正法眼蔵」を読むということは読み手の存在を映すにすぎないし、未知の価値は自分が変わらないことには得られない。・・・あらゆる表現芸術はすべて同じかもしれない。



2007/02/22
813 音の匙(おとのさじ)

山口孝さんがステレオサウンドに連載していたエッセイが単行本として出版された。この雑誌は、たまに読むだけなので、はじめて目にする文章も多い。

1997年の「憧憬」と題されたバッハのフーガの技法をテーマにした一節に驚いた。未完の四声フーガにも触れられているが、ぼく自身が山口邸のパラゴンで聴かせてもらったムジカ・アンティクヮ・ケルンの鑑賞状況とオーバーラップしてしまった。この文章の存在を知っていたら、はたしてあの時あのCDを持参しただろうか。そしてこんなリポートを書けただろうか。
http://www.vvvvv.net/sense/0104.html

※写真の装幀は彼の表現する世界からインスパイアされた個人的なデザイン試案です。実際の出版物とは無関係ですのでお間違えなきよう。

このダミー、けっこう凝って作りました。
IllustratorのデータをPhotoshopでラスタライズして
キヤノンのインクジェットプリンタで出力しています。
用紙はカバーがEPSONクリスピア、オビが同じくフォトマットペーパー。
商業印刷でこの質感のコントラストを出すには、かなりコストがかかりますねぇ。



2007/02/09
812 極私的、道元プロジェクト その1

いまの宗教にはほとんど興味をそそられない。全体としてみれば、過去に完成したルールに則ったサービス産業にしか見えないからだ。人間のメンタルな部分を扱うだけに悪質な場合がある。
道元の時代(1200-1253年)に宗教はどんな位置づけだったのか、とても興味を持っている。知のR&Dが寺院であり、僧侶は研究者でもあったと思う。とくに道元は、精神や物質の存在するところの"構造"を探求した稀な人間だったのではないか?

というわけで、未知の分野に触れようと思ったとき、何処から入るかは運命の分かれ道とは言えないまでも、けっこう重要だ。「正法眼蔵」を原文で理解するチカラは当然ないから、なんらかのガイドが必要になる。いい加減なものから入って、回り道を喰らった体験を過去に多くもっているからつい慎重になる。まずは書店と図書館の書棚から、これはと思うものを斜め立ち読みした。

文学系の著名人が書くような"道元ノート"には拒絶反応がでた。あんたのフィルターが邪魔だって。とかく自分を出したがる表現者(?)の道元論には興味がない。

日本の名僧シリーズ(吉川弘文館刊)「孤高の禅師 道元」は、9人の多方面からの執筆者による解説本で、「正法眼蔵」の中身にはそれほど踏み込まないが、道元の全体像を知るには格好のガイドになった。

正法眼蔵本体では、現代思潮社の社主である石井恭二氏の「正法眼蔵の世界」全5巻(河出書房新社刊)が現在入手できるものとしてはいちばん気になっている。原文+注釈+現代語訳のバランスもいいし、石井氏の真摯な姿勢に好感を持った。一冊5500円なのでこれは後回しにして、同じ執筆者の「正法眼蔵覚え書」(現代思潮新社刊)を読んでいるところだ。ほかに哲学として正法眼蔵にアプローチしているものが多数ある。頼住光子氏の「哲学のエッセンス 道元」(NHK出版)をこの週末に読んでみようと思っている。




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