「観る」あるいは「聴く」という行為は、提示された情報を丸写しすることではありません。そのプロセスを推測すると、最初に粗い全体像の認識があります。この全体像は各自の記憶や思考ルートによって、次に取得すべき情報を有為的に選別すると思います。このプロセスを瞬時に繰り返すことで、ディテールを含む全体像ができあがるのではないでしょうか。
同じ対象物でも、見え方、聞こえ方は人によってさまざま・・・。大きな、精緻な情報ほど、受け手のアクティブな姿勢が問われるのでは、と思います。
だからこそオーディオが人生を賭けるに値する、本気の趣味として成り立つのではないか、なんていうと大袈裟でしょうね。というわけで、ながらく中断していたオーディオ関連コラム再開のご挨拶といたします。(文責:machinist)

2003年前期目次:(クリックで該当部分に移動します)
●オーディオの流儀 
●ジャズ喫茶CANDYで「音楽の抽象性」を考えた 
●楽器的? 
●最適レベルポイントは2つ存在する 
●音を聴くということは演奏者が展開する時間軸を聴き手の意識が共に歩むということ 
●音量と情報量の問題をちょっとだけ考察 
●再生音の鮮度? 
●たまには機械の話も 
●ケーブルを考えていて思い当たったこと 
●長岡鉄男 賛 NEW! 2003.06.05
●レコード演奏家の取材リポート NEW! 2003.06.12

不定期で追加します。ご覧になったご感想をお寄せください。[Mail to:]





オーディオの流儀

10年以上前のステレオサウンド誌のメーカーアンケート「御社のサウンドポリシーは?」に答えた、米国フッターマン社のコメントです。

(全文)
 人間の音楽に対する感性が解析されない限り、
 オーディオは単なる技術ではなく芸術でなくてはなりません。
 そして他の芸術と同じように、回路づくりにも流儀が存在します。
 われわれの流儀は、優れた音楽的経験と素養をもった設計者による、
 最高の回路構成と最高の品質のディバイスから成る
 最高のアンプをつくることです。

なんという格調。人間と音楽への畏敬の念に打たれます。
だた、裏読みすると「人間の音楽に対する感性」が解明されたあかつきには、オーディオは「単なる技術」になるってことみたいです。・・・ちょっと寂しい、でも500年くらいかかりそう(笑)。




ジャズ喫茶CANDYで「音楽の抽象性」を考えた

千葉・稲毛のCANDYは、打っぱなしコンクリートとガラスブロックの明るいジャズ喫茶です。オーナーの林さんはチャーミングな女性であるにもかかわらず、筋金入りのジャズマニアでオーディオファイル。ディスクの掛け替えは片面全部なんて横着なことをせず、2、3曲ごとに絶妙な連携で繋げていきます。
音は極上の部類で、わたしの装置よりリアルな質感を再現しますし、最新のデジタル音源もアルバート・アイラーの古いヘレヘレのアナログディスクも、違和感なくジャズの熱いエモーションを伝えます。実はこれがいちばんオーディオ再生で難しいことです。音質を気にしないで音楽に浸れると言う意味で、一関の「ベイシー」に匹敵する音楽的リアリティを獲得していると思います。

思うに「リアル感」というものには、音楽的方向とマテリアル的方向があって、わたし的には「音楽のリアル感」を感じさせてくれればそれで十分と考えています。わたし自身の装置もそこらあたりを重視してまとめています。マテリアルの方へいってしまうと、サウンドステージのような「具体性」の追求になってしまい、音楽の「抽象性」を感じ取るという重要部分がお留守になってしまうのではないかと危惧するわけです。

うまく説明できませんが、音の背後にある「見えないなにか」を感じることが「音楽」を聴くということであるとすれば、例えばコルトレーンのリードのコンディションが克明に分かるオーディオ再生というものも捨てがたいと思いつつ、そのことに気をとられているうちに、一番大事なこと、つまり彼が伝えたい音の内部に入り込めないのではないかと一方で考えてしまいます。
オーディオに気を遣わない音楽ファンを理解できないと、オーディオマニアはいいます。しかし鋭い音楽ファンは分かっているのかもしれません。マルチウエイスピーカの欺瞞性とか、あるいは巨大装置に時として感じられる大袈裟な力感などを・・・。

CANDYは相当なHiFi再生を実現しているにもかかわらず、ぎりぎりのところで「音楽の抽象性」を伝えています。願わくば、これ以上のHiFi追求に走らないで、このままのコンディションをいつまでも保っていただきたいと、つい外野としては思ってしまいます。
林さんは音楽表現と分離するようなオーディオ談義を極度に嫌いますが、目指す再生レベルはもっと上にあるようで、最新情報によるとスピーカボックスを一新する計画が始まっているようです。これは茨の道になると思いますが、彼女の目指す理想のオーディオ再生がいつの日か実現することを祈っています。




楽器的?

1:効率重視
  少ない入力で大きな音を綺麗に出す。
2:直線性重視
  演奏者のタッチにリニアに反応する。
3:フラットネス重視
  帯域内(音程的な)は均等な音量を確保。
4:十分なサスティーンを確保

オーディオと似ていませんか。「4」に関しては全然違うし、固有の音色といった問題もあります。楽器の音は「共鳴・共振」と「分割振動」で成り立っています。自然界でピストン運動で出ている音ってありましたっけ?・・・あっ、スピーカねっ(笑)。




最適レベルポイントは2つ存在する

長年の懸案だった、ウーファーマグネットの再着磁を行いました。ボイスコイル付近の磁力は着磁後30%ほどアップしているようで驚きました。
着磁後の変わり様は、一言でいうと静かになったということ。元気バリバリのイメージを想像していましたが見事に外れました。振動板に対する制動が効くようになって暴れ(分割振動?)が低減したように感じます。それにともなってサウンドスペクトラムの重心が低い方へ移動したようで、ハイ側アッテネーターの再調整を施しました。 L型固定抵抗なのでちょっと面倒ですが、0.5dBくらいの段差で追い込んでいくとどちらとも決められないポイントが2通りあります。ハイ・ローの量的バランスが整合するポジションの他に、たぶんクロスでスムースにつながると思われるポイントがあり、前者の約2dBダウンの位置でした。すこし穏やかすぎる感もありますが、とても気持ちのよいバランスでありながら、こちらへ突き進んでくる浸透力を示しています。

その昔、ステレオサウンド誌でパラゴンの解説をなさった瀬川冬樹さんの記事のなかで、ツイーター075の最適レベルポイントは2つ存在する、と述べていたのを思い出しました。

ところが量的バランスでどう追い込んでも、クロス近傍のスムースネスとは両立しないケースがあるということを長年の経験で実感しています。ユニット特性やルームアコースティックの問題が絡んだ複雑な結果とも言えますが、これらは別次元で対処したほうが賢明かなぁ、などと思っていた矢先、ラジオ技術誌の連載「感動を求めて---オーディオは観察から始めよう 第5回」で興味深い記述を発見。「マルチウエイの帯域レベル(アッテネート)ポイントは1つしか存在しない」とあります。




音を聴くということは、演奏者が展開する時間軸を聴き手の意識が共に歩むということ

上記の著者の響氏は、時間軸上の微視的再現性を従来の交流理論だけ達成するのは不可能、という論拠を具体的、詳細にあげながら、新しいパラダイムのもと「感動の再生」をめざそうという、骨太の連載を始めており大いに注視しているところです(編注1)。
連載第1回の要旨というか前書きをちょっとだけご紹介します。

 感動を求めて---オーディオは観察から始めよう
 響 学(ひびきまなぶ)執筆

 フルトヴェングラー/ベルリンフィル47年のライブは
 ノイズだらけの狭帯域の録音なのに
 その感動を伝える装置とそうでないものがある。
 録音信号に込められた演奏者の心を伝えるのが本物のHI-FI追求です。
 一般的な工学分野では実際より厳しい高精度な条件でテストし開発されるが
 オーディオは最終的な使用条件、すなわち音楽波形が最も複雑、微妙である
 といった特殊な世界であるということ。
 そのため「聴く、観察する」ことが開発の基本であって
 未知の要因、特性の発見が重要・・・。

時を同じくして発売されたAudio Basic誌の米谷氏(タイムロード)の記事も「静」特性や「観測窓」の限界に触れながら、新しい評価軸を模索する姿勢は、響氏の記述につながるものと思います。なかで、特性ではるかに劣るSP盤の中に、最新オーディオがかなわないリアリティを表現するものがある・・というくだり。昨年来SPレコードを聴く比率が圧倒的に増えてしまったわたしとしてはたいへん嬉しい記述でした。時間軸を高密度に途切れなく記録するという意味でやはり過去最高のフォーマットではないかと思っています。

音楽を聴くという行為は、演奏者が展開する時間軸を聴き手の意識が共に歩むということであって、このことはオーディオ再生でもまったく変わらないと考えます。

超・短期的に見ると、瞬間感知の前後に過去記憶、未来推測が連なった状態で、聴感の最小ユニットを形成しているように思われます。そのような「滲み」を持つ中心点が時間軸上を推移しているのではないでしょうか。そういえば「瞬時切り換え判定」という手法、最近ではあまり流行りませんが、いわゆる原音再生論者が好んで用いていました。スペクトラムバランスは明快に判別できますが、音や音楽の鳴り方が判断できるとは思えません。「意識のスリット化」は人間の生理を考えないナンセンスな所業?。

「観測窓」という表現を、文系的スタンスで咀嚼すると以下のようになります。

音楽波形という時間軸上に展開される現象を極めて狭いスリットから覗き見る行為。このスリットは静止しているので時間は次々とやってきて新しいものに置き換わる・・・。「測定」とか「記録」も、このように固定点で観測し再び固定化する行為といえるのではないでしょうか。

では、人間の「聴感」はどうなのか。「固定されたスリット」とはとうてい思えません。例えとして相応しいかどうか分かりませんが、スピードスケートを撮影するレール付きカメラを連想します。対象物と共に移動することで詳細な変化を記録します。ではスピード感は・・・これは背景が変化することで十全に表現できます。

(編注1)
2003年7月号までの感想ですが、大山鳴動ねずみ一匹の感が無きにしも非ずで、前置きばかり。噂のパイロットモデルって、まさかヤマハNS1000Mのツイータのプラスマイナス反転のことじゃないですよねぇ。今後に期待ですが・・・。




音量と情報量の問題をちょっとだけ考察

画像における「ヒストグラム」は濃度がどのように分布しているかというグラフですが、この最暗部をソースのノイズフロアあるいは可聴限界と見立てると、再生ボリュームの大小でシフトしていきます。
調整がうまくいってないときは、この黒レベルが目立ってしまったり、あるいはそのはるか以前で埋もれてしまったり・・・。電気音響の、ボリュームを自由に変えられるメリットがデメリットになったり。

ここでオーディオにおける情報というものを考えてみると

1:元々の演奏現場に存在する情報
2:記録された情報
3:再生し認知する情報

この3つの情報量は順に少なくなっていきます。「1」は無限大とも言えます。ただし「3」の認知は記憶に依存する部分もありますから個人差が大きいかもしれませんし、場合によっては「2」よりも大きいとか(笑)。
再生時の情報量は「音量」が支配する部分が多いように思えます。先に述べた「黒レベル」に関わります。小音量で再生する場合、なくなりつつある情報をいかに「明瞭度」がカバーするかが重要ではないでしょうか。
個人的には「音量」というものがいま大きなテーマでありまして、音量を絞るということは、どういうことなのか。そのむかしステレオサウンド誌上で瀬川さんがミニチュアになるイメージを述べたら、岡さんがサイズが小さくなれば楽器のピッチも上がるだろうと反論していたのを思い出します。
わたしのイメージでは小音量というのは透明度(transparency)が増大することだと思います。最後は消えていって空気だけになる・・。だから透明度と実在感は相反すると。

*まとまりのない分かりにくい内容ですみません。後日もう一度トライしたいと思っています。




再生音の鮮度?

SPレコードを毎回掛けるのは面倒なのでCDRに記録したりします。
ところが、CDRでの再生では、SP盤に聴くダイレクト感が大幅に減少し鈍った、いわゆる鮮度感の少ない音に変化します。伝えられているSPレコードの高域限界は電気時代でも8KHzあたりだそうですが、当方ではSP再生にあたってノイズカットのローパスフィルタを挿入していませんのでノイズはそうとうワイドレンジです。
実際このCDRのデータをMacでFFT分析してみましたが、だら下がりながら20KHzまで分布しておりノイズ成分に限っていえば44.1kサンプリングでは力不足なのかも知れません。
と言いながら16kHzもまともに再現できない我が家のスピーカで、これらの違いを感知できることが実に不思議なのです。
この辺に「鮮度」を究明する手がかりがありそうに思えるのですが、わたしには手に負えない問題でした(笑)。




たまには機械の話も

当方のオーディオシステムについては別ページで紹介させていただいていますが、目標は音楽の鮮度感、リアル感を伴う再生です。すでにこの世にいない巨人たちの演奏をありのままに、間近で聴きたいという願望です。「原音再生」指向とは異なるのですが、本物を感じたいというゴールは案外似ているのかもしれません。
人間の声の浸透力と微細なニュアンス、これが最重要の項目です。装置のラインナップからすると意外に思われるかもしれませんが、リニアリティとダイナミズムの再現をクリアすべく、この装置全体をデザインしています。

全体構成のポイントは100dBオーバーの高能率スピーカユニットの使用で、これによってアンプの設計をシンプルにしながらダイナミックレンジを確保しようというわけです。アンプとスピーカは一体でデザインするものであって、個別の音づくりは非効率と考えています。

ラインアンプの双三極管ECC84 SRPPはパワーアンプの初段の役割を担当しています。パッシブフェーダーとパワーアンプという構成に似て、要はどこで分割するかが異なるだけです。全体のゲイン配分からスピーカの能率と聴取音量をふまえ、それぞれの素子の「おいしい部分」を活かしてやろうという考えです。
またスピーカの能率が高いため、微細音のリニアリティが粗雑にならないよう注意しています。回路に供給するDC電源が音楽信号で振られないというイメージです。ラインアンプの電源は増幅に必要な3倍くらいの電流を流すと同時に、パワーアンプの電圧増幅と出力段の消費電力を近づけたり、ビーム管のスクリーングリッド電圧を安定化させたりなどの対策をしています。
といっても本当に効果があったかどうかは定かではありませんが、多分効果ありと思っています。勘で決めて問題があればやり直すというスタンスです(笑)。

勘といえばスピーカシステムも、そのようにしてカタチになりました。仮想同軸、中空放射というイメージで、ALTEC604をジェンセンのウルトラフレックスのバスレフ形式で作ろうと当初は考えていました。
ところがクロスの低い初期型はコストは高くて買えませんでしたので、511ホーンでなにが出来るか考えたのです。これは500Hzから実用になり、ヴォーカルの再現性で非常に有利と踏みました。
設計にあたっては「パラゴン」という格好のお手本があったので、あれを2つに割って縦置きするようなものを作ろうという感じで、ラフスケッチ100枚くらい描いて半年がかりで作りました。完成直後はひどい音で、MJの中澤元編集長にお聴かせしたのもこの頃でした。なかば意地で8年使ってきましたが、今年になってウーファーマグネットの再着磁、ネットワークの変更などの対策で少しブレイクスルーしたかな、という状況です。

ウーファーはネットワークスルーのアンプ直結です。これは以前にもトライしながらモノにならなかったのですが再着磁で実用になりました。実は515B振動板の対抗面にグラスウールを装着して高域吸収を狙っています。
802Dドライバのハイパスフィルタも-6dB/octで行けると本当は良いのですが、大入力で濁るのでちょっと変則定数のLC型-12dB/octで構成し、ぎりぎりまで低い音域(500Hz以下)を確保しています。この部分のコンデンサーは各種比較検討の末、サンガモ社のオイルコンとウエスタンのオイルペーパーコンの混成部隊になりました。
低音ホーンの音道はハイパーポリック近似のコニカル形状ですが、最終的には見た目優先で決めています。空気室はバスレフポート付きで90リットルくらいあります。音道が短いこともありパラゴンほどのホーン効果はありませんが暴れも比較的少ないように思えます。

いづれにせよ、あと十年はこれで楽しめると思っていますし、できることなら同じコンセプトでもう一度、一から作り直したい思いもありますが、そのとき体力が・・・(笑)。




機械の話その2 ケーブルを考えていて思い当たったこと

真空管アンプとオールドスピーカユニットでもケーブルによる音の違いはあきらかです。
インターコネクトも電源ケーブルも音を変える大きな要因で、このようなパッシブ素子による音の変化は時に、アンプにおける差より大きい程です。ただ自信を持って言えるのは「ケーブルで音が良くなるわけではない。」ということ。

ケーブルを変えたことで音が良くなったとしたら、その原因は「割れ鍋綴じ蓋的バランス均衡」という希有な例を除き、各コンポーネントのポテンシャルを引き出す伝送を果たした、ということに他ならないと思います。クオリティに限れば川上で10あったものが川下で12になることはまったくあり得ません。
同じように音が良くなるアンプも存在しないのではないでしょうか。パワーアンプの場合は負荷であるスピーカをより良く鳴らすという複雑な命題があるので、もう少し事情は複雑に思えますが。

そんなふうにつらつらと考えていると、「んじゃなにかい、オーディオってもんは音を悪くするためにあるのかい?」なんて、志ん生の口調で責められそうですが・・・。




長岡鉄男 賛

FM fan1992年5月25日号のダイナミックテストの巻頭言を引用させていただきます。時代はバブル崩壊の真っ只中でしたが、当時の一般的なとらえ方は景気の波の下り線くらいの認識だったのです・・・。

「原稿を書いている4月20日時点でダウ平均株価は1万7000円前後、これからどうなるのだろう。底だ、底だと何十回となくいわれ続ける中で、底抜けを繰り返してきた。楽観論では年内2万円、悲観論では年内1万5000円説が有力だが、(途中略)次の心理的底値は最高値の1/3の1万3000円である。これも割ったら次は1/4の9750円だ。これ以上絶対に安くならないという超底値は4000円である。(途中略)株がいくら下がっても知ったことじゃない、という意見も多いが、そんなことはない。今、株を持っているのは個人ではなく、企業や金融機関である。金融機関は資産激減で貸出ができなくなる。下手をすれば倒産だ。早めに銀行預金を引き出して郵便局へ持っていったり、自宅の金庫にしまいこんだりする人も出てくる。企業は金がなくては何もできない。物は売れない。人員削減。消費者は先行不安で、財布のひもをしめはじめた。(途中略)このまま、消費沈滞、企業・金融機関の地盤沈下、株価下落の連鎖反応が続くと、1999年に世界は終末を迎える可能性が大きい。」(以下略)

長岡さんはオーディオの記事を専門にしながらも、本当は世の中の事象すべてを語り尽くしたかったのだと思います。オーディオ雑誌のいくつかの連載の前振りは、本題以上に真理を見据えた洞察力で、大いに楽しませてくれました。
ちなみに、上記FM fan5月25日号は、名作スーパースワンD-101Sの11ページにわたる製作記事が掲載されています。



お会いしたことも、お声を聞くこともなく、この方は逝ってしまわれましたが、氏の表現するサウンドは十分に分かるような気がします。飛びっきりの鮮度感と広大なダイナミックレンジ、SNも優れていて・・・ただ、甘さ、優しさ方向の表現はかなり苦手。
この方から多くのものを学びましたが、わたしの自家製装置の思想的バックボーンは、何を隠そう「長岡鉄男」その人なのです。

初めて「長岡鉄男」という名前に触れたのは、ステレオサウンド誌、1967年頃の第7号か8号か忘れましたけれど、アンサンブルステレオのテストリポートでした。
まだ30代後半?の長岡さんはスーツにネクタイ姿で写っています。頭は坊主刈りでこれは最後まで変えませんでしたが、なにかとても怪しい雰囲気を醸し出しておられ、これが記憶に残っていたわけです。このテスト、写真から推測すると、メーカーのショールームや販売店のフロアらしき雰囲気で、どうも出向いていって試聴したリポートのようです。サウンドクオリティ云々より、使い勝手とか、デザインなどを中心にまとめられていて、「ルックス」なんていう表現を頻発しておられましたが、総じて印象に残るような記事ではなかったです。

その後、1970年くらいに「マイ・ステレオ作戦」というタイトルの初めてのオーディオ関係の単行本を出されます。これはその後の30年間にわたる長岡鉄男時代のプロローグといえる著作でした。当時は越谷の公団住宅にお住まいで、すでにフォスターのFE203を2連にした、簡易型*バックロードホーンをメインスピーカーとして使い始めた頃のようです。(*音響迷路型の発展系としての)
そういえば「トランジスタ技術」誌に連載していたオーディオ業界裏事情は面白かったですね。メーカーが試作品を評論家宅に持ち込み、批評を仰いでいるのは公然の秘密ですが、長岡さんのようにオープンに記事にしてしまう人は他にいないでしょう。この連載は70年代から80年代終わりごろまで続いていましたが、メーカーの圧力で終了したのが残念です。



「マイ・ステレオ作戦」にさっそく影響を受けて、単発のバックロードホーンを作りました。といっても同じものをトレースするのはイヤなもんで、発売直後のフォスターUP163を採用し、空気室を大きめに取り、スロートは振動板面積の30%、ホーンも計算式近似のテーパー状に変化するという本格的な?ものだったのですが見事な失敗作でした。UP163がホーンロードに不向きということは、薄々知っていたのですが、やはりダメというか、なんの長所もない代物でした。
「マイ・ステレオ作戦」にある長岡式バックロードホーンでは、スロートはグラスウールで音道を狭くするだけでしたし、ホーンというより平行面の共鳴管を段階的に重ねていく手法で、ずいぶん安直なものだと当時思いましたが、これはわたしが長岡鉄男の神髄を知らなかったためです。

その神髄というのは、徹底した「合理主義」であると思うのです。ある目的を得るために、可能な最短距離を探るのが「長岡イズム」ではないでしょうか。「質実剛健」という言葉は、氏がオーディオ機器を評価するときの姿勢そのものですし、ご自身が製作したスピーカシステムも然りと考えます。まわりくどい例えですが「5+3−2」というプロセスがあるならば、「5+1」で済ませるのが長岡イズムです。ネットワークの設計がまさにこれで、アマチュアはインピーダンス整合を施した上でレベルを合わせ、クロスをきちんと計算上して、音を聴いて愕然とするわけですが(笑)、氏はすべてを頭に入れながら、最小限の素子でより良い結果をものにします。シンプルということが鮮度をそこなわない最大の要素なのですね。

FM fanの「ダイナミックテスト」は欠かさずに見ていました。目方を量って、ボンネット開けて、トランスとコンデンサの寸法計って。サウンドの表現は「真綿でくるんだハンマーのよう」というように意味不明ながらも、とにかく分かりやすいレポートでした。音楽がどう表現されたか、なんてところには立ち入らないのですね。これはある意味、氏の見識というか江戸っ子の美意識のなせる技ではないでしょうか。
この記事に影響されて購入した機器をちょっと思い出すと、ケンウッドの第2世代CDPであるDP1000、超重量級LDプレイヤのソニーのMDP999など。これらはいまだに我が家で現役ですし、そういえば「古代ギリシャの音楽」はリファレンスソフトとしていまだに聴く頻度が多いです。



「長岡教」という宗教があるらしく、その信者たちは教祖の使われていたものを真似た装置で、自衛隊の大砲発射音などを聴くのだそうで・・・。趣味の世界だからとやかくいう筋合いじゃありませんが、そういうかたちでしか長岡鉄男を語らないとしたら、たいへん残念なことです。出版社も(主に音楽の友社ですが)そのような風潮を煽った責任が大いにあると思います。

伝えるべきは、彼の真理を見つめる目と、目的を最短で実現する流儀そのものである、と主張して(笑)この稿を終わりにいたします。




レコード演奏家の取材リポート



「レコード演奏家」という言葉をはじめて聞いたときとても違和感を感じたものです。演奏しているものを演奏するって、ありえるのか、僭越なんじゃないかって。
しかし、演奏とか創造、あるいはアートという言葉の本当の意味を考えたとき、違和感はなくなりました。 うまく説明できないかもしれませんが、まぁ、聞いてください。

演奏とは、音楽家が自身の音楽を奏でることに他ならないとしても、純粋な自己表出ではないと思うのです。クラシックだったら作曲家への敬愛であったり、ジャズやブルースなら、先人たちへの慈しみもあるかもしれません。自身をトランス状態にすることで、いまは亡き偉大な先人たちを表現している名演奏も数多くあります。 わたしはグラフィックデザインを仕事にしていますが写真とテキストという材料があれば、それを生かすことしか考えません。なにもしないデザイナーっていわれることもあります(笑)。何がしかのフレーバーを感じてくれる人がいてくれたとしても意図したものではないのですが、それでいいと思っています。

オーディオもまったく同じではないでしょうか。どういうコンポーネントを選ぶか、どういう風に鳴らすかかはさまざま。よりよい音楽再現を望む気持ちはみんな同じなのに結果として、各人の有り様が如実にあらわれるってことではないでしょうか。
怖いことでもあるし、奥深いともいえると・・・。

このお話をいただいたとき、どうみても、わたしはミスキャストじゃないかと思いました。このページに登場するオーディオファイルは、市販品のなかでも「ハイエンド」といわれる欧米の気鋭メーカーの高価格コンポーネントを、専用リスニングルームにしつらえるような方々であって、当方のように自作機器を、家族がすごす普通のリビングルームに置いている人間には無縁の世界ですよね。「ローコストがわたしのポリシーなんで、あのページには合わないと思いますが・・」「いえ、装置ではなく人間にスポットをあてる企画です。ホームページも拝見させていただいておりますが、十分素晴らしいものと思っておりますし、菅野先生も面白いから是非にと申されております。」というわけで取材をお受けすることになりました。

この「レコード演奏家訪問」は1982年の64号から始まる「オーディオファイル訪問記」を含めると、20年以上も続いている企画ですが、わたしのところへの訪問なんて想像さえしていませんでした。ローコストもさることながら、アンプ、スピーカーともに自作というケースは、ガレージメーカーを除いては過去になかったのでないかと思います。自作機器が跋扈する風景は、ステレオサウンドの広告を含めた編集戦略と相容れないのでは・・・などと要らぬお節介をしながらも、しかし、これは画期的なことかもしれないなどと内心ほくそ笑んでいたのは本当です。



今年になって、システムの完成度が上がってきていると実感していたので、ここ十年のあいだでは一番いい時期だ、と思う反面、このラインナップで(・・・やはりというか)ひどい音がでて、悲惨な記事が出来上がる想像をしたりして、取材当日まで不安な日々を過ごしたのはいうまでもありません。

当方は取材を受ける側であって、全8ページの構成は編集者や菅野さんのご裁量なのは当然のこととしても、わたしも少しばかりプランニングに参加したいという、悪い癖がでてしまいました(笑)。自作機器の説明で時間を費やしたり、ハード系の話題が誌面を占領するような野暮はしたくないと、あらかじめ機器類の紹介文を編集部に送っておきました。これで当日は音楽の話だけで、願わくば「音質」の話題も避けたいなぁ、など勝手な想いを巡らせながら、機械の音ではなく音楽をお聴かせするというスタンスで演奏プログラムの構成を企ててみたり・・・。そうだ、菅野さんはオーディオユニオンの録音コンテスト*の審査員をなさっていたから、この話題から入ると拡がりが出そうだとか。(*わたし、このコンテストの常連だったのです。)

自作パワーアンプは可変NFBをはじめスクリーングリッドの電圧も変更できるようになっていますし、パワーチューブもウエスタン350Aを筆頭に各種スタンバイしています。スピーカシステムの位置も床下の根太との接地関係で低域の出方が大きく変化します。それらはその日の天候具合などで音が優れないときの調整代(しろ)というわけですが、ここ数週間は固定状態。いじって良くなるケースばかりではありませんので、今回はなにも対策しないことに決めました。
というわけで、いつものごく普通の我が家の音をお聴かせできれば、それで良いということに覚悟をきめます。どうせ背伸びしたハイファイサウンドを狙ったところで失敗するのは目にみえていますから。



試聴会などで過去に遠くから拝見したことはありましたが、菅野さんに直接お目にかかるのは初めてでした。1966年の電波科学オーディオ増刷号が、氏との初めての出会いでしたが、以来、その理知的で明晰な評論文から多くの影響を受けました。やはり音楽現場を知り抜いている強さが、その文章を説得力のあるものにしていると思います。(生意気いってすみません)
我が家へお入りいただくなり、さっそく出迎えた我が家のティファニー(犬:パピヨン)にお顔をほころばせ、ご自宅でダックスをお飼いになっている話など、わたしの妻とペットの話題でひとしきり盛り上がり、なんかいい雰囲気になってきました。

演奏はバーデン・パウエルのギターソロから始めました。この晩年の録音はナチュラルなバランスのなかに感情のダイナミズムを余すことなく捉えた好録音です。実をいうとこのディスクは我が家の装置へ向かって「どうぞ、いい音楽をお聴かせくださいませ。」とお願いする儀式でありまして(笑)、このソースが鳴ると、あとは大抵うまく行くという経験則からきています。イルンゴオーディオの楠本さんがお見えになったときもこれを掛けまして、たいそう気に入られたようで、その後リファレンスプログラムになったそうです。

「このような温かいサウンドは最近ないですねぇ」と菅野さんにおっしゃていただきました。ひいき目かもしれませんが、バーデン・パウエルのソウルが伝わってくる、静かで熱い演奏だったと思います。欲をいうと、もうすこしエッジが立ったサウンドでもよかったなぁと思い、続いてタック&パティの「DRUM」を、ややハードにやってみます。といってもボリューム操作で装置の音量限界に近いところで再生するだけなんですが、これ小出力アンプの醍醐味なんですね。この曲は、アカペラというかスキャットというか、声だけでパーカッションを模した二人の掛け合いですが、過去最高と言っていいくらいの再生になりました。録音は低域のブーミングを強調したアンナチュラルなものですがレコーディングアートとでも言うべきスリリングな音づくりを、気持ちよく再現できていたと思います。
傍らで聴いていたカメラマン氏が「これ、ぼくも持ってますが、こんな凄い音は、はじめてです。」と小声でさけんでいました。装置の限界付近の挙動をつかむとコンディションはほぼ判りますが、いま現在がピークでこの後は少しづつ鈍って来そうに感じたのは秘密にしておきました。



エンヤレーベルのLPで山下洋輔のものすごくハードな「枯葉」。映画「コットンクラブ」のサウンドトラックを一気にいきます。当初考えていたプログラムと大幅に異なるものになっていますが、自然にこのようなラインになってしまいました。予想どおり先ほどのタック&パティ「DRUM」の後半あたりがコンディションのピークだったようで残念ですが、それでも音楽のエッセンスは表現できていたと思います。

ローズマリー・クルーニーの「Don't Explain」をLPで掛けることにします。「出るときと出ないときなあるんで、今日は出るかどうかわかりませんが・・」などと意味不明なわたしのアナウンスに一同失笑でしたが、気をとりなおして針をおろします。どうか奇跡が起こりますようにと・・・。
どうも奇跡は起こらなかったようです。スコット・ハミルトンのテナーは上々でしたし、ヴォーカルも悪くありません。でも、夜半に帰宅した夫に向かって、やや年を召した妻の内に秘めた絶望を、ロージーは唄っているんです。悲しみと諦めを老醜ぎりぎりの艶やかさでね。過去に2度ほど、この「魔界」が出たのですが・・・。

最後は、比較的あたらしい録音でジョン・アバクロンビーのアルバム。CD時代になってECMレーベルはナチュラルでバランスのとれた、熱いジャズを聴かせるようになったと思います。当方の装置はECM特有のパースペクティブな空間表現は全く不得手ですが、そのかわり、ECMでさえ切れば血の出る人間表現にしてしまうところがあります。アバクロンビーは電気を通してもなお自身のソウルをギターで表わせる数少ないプレイヤーだと思わせる名演です。

という次第でメインの装置の演奏はこれで終了ということにして、おまけとしてクオード+ロジャース連合で戦前の三味線音楽をSPレコードで掛けようと思っていました。が、これまでの流れと違和感を感じさせる気がしたので、メイン装置のままでチャーリー・パーカーのサボイオリジナルSP盤の演奏ということに。クオード+ロジャース連合のSP盤による三味線の再生も素晴らしいものですが、あまり裾野を拡げると記事が散漫になる危険もありますしね(笑)。
SP盤に聴くチャーリー・パーカーは彼の「ビッグトーン」の所以が明確にわかるような凄まじいものです。今日もうまく再現できたように思えます。若きマイルスもジョン・ルイスも見事に生き返って演奏してくれました。SP盤に聴かれるウッドベースの凄さは他のフォーマットでは望めない世界でしょう。
菅野さん曰く「ここにチャーリー・パーカーがいましたね!・・でもECMのあとにSP盤かけるって、普通はやらないよねぇ。」

以上が、菅野さんご訪問の第一段階でした。反省点としては、音量設定をもう少しシビアに追い込みたかったこと、パワーチューブのエージングが進み過ぎていて、やや音の立ち方が甘くなっていたこと、などです。「オールドスピーカー」と「真空管」という範疇で括られたくないという気負いのようなものでしょうか。実際そうなのに(笑)。

その後、菅野さんの絶妙なリードで、お話をさせていただきましたが、こちらは本誌2003 SUMMERをご覧ください。しかし・・・喋りことばが文字になるって、難しいものとつくづく思いました。これも収穫だったかもしれません。




次回予定(変わるかも・・)

サヴォイ盤のチャーリーパーカーを聴く SPディスクのノイズを生かした音の実体をFFT分析とストリーミング音源で紹介。
歌姫たちの苦悩 笠置シズ子からU_Aまで、日本語とJ-POPの狭間を考える。
憧れのハイエンドオーディオ やぶにらみ「高級機器」論。

と思っていたのですが、NEW PAGE 日記風オーディオエッセイ「幻聴日記」で順次とりあげることとし、「音に関する二、三の話」は完とさせていただきます。
「幻聴日記」http://www.vvvvv.net/topics/topics.cgi



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