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2007/08/13
877 音の敏感力が・・・

先週末、音楽鑑賞オフ会を行った。夏休みの真っ只中、それも直前告知だったため、数名の方々から「もう予定入ってるから・・・」とご連絡いただいたが、それでも3名の熱き音楽愛好家のご参加をいただき、あらためて感謝申しあげたい。

じつはその前日に、エアコンの下で口を開けて小一時間ウタタ寝をしたせいで風邪をひいてしまい、咳を堪えるのに必死でほとんど喋れない、という情けない状況。お招きしながらほんとに申し訳なかった。さらにマズイことに、耳に膜が二重に張られた感じで肝心の音がよく聴こえないのだ。味見しないで料理を出すシェフがあっていいのだろうか(笑)

基本的にオーディオの音を聴くためのオフ会はやらない。べつにオーディオファイルを揶揄しているわけではなく、当方の装置が世間のハイクオリティオーディオの表現する世界に達していないからで、さらに言えば、機械の格の違いによる変化量にプライオリティを置かないという"ひねくれ者"だという事情もある。

わが家のオーディオ機器は音量調節以外に操作する部分がない。機器の絶対的クオリティが"そこそこ"ということは、音楽ソフトのポテンシャルを引き出すための操縦はボリュームしかないわけで、この点はかなりシビアに対処しているつもりだ。が、耳がこんなではそれもままならない。ところが隣室の妻に尋ねると、けっこうイイ音が出ていると言う。まったくオーディオは不思議なものだ。ちなみに今回の音楽鑑賞会の締めは"ラブ・サイケデリコ"の「I will be with you」信じがたいほどグッと来たんだが、これって鈍感力のなせる技か?

付録:

いい機会だから、耳*の状況が芳しくないときに、どのように聞こえるか観察していた。まったくホスト失格であるが・・・
顕著だったのは微少音量域の追従性が損なわれていることだ。ニュアンス**が聞き取れていない。不感レベルが嵩上げされた状況といえばよいのか。音圧として感知できてもあるべき変化に聴感がついていかない。

*耳の性能とは鼓膜とそれに付随する機構一式と脳における聴感覚ソフトウエアの総合性能だから、耳の機構が劣化したからといって聴力そのものがリニアに劣化するわけではない。しかし、限界をこえればソフトで補償できないという事例かもしれない。

**個人的に装置のチューニングでよく使うのはヴォーカルのような人間の聴覚に敏感な部分の変化を聴き取ることだ。ローズマリー・クルーニーの「Don't Explain」のなかのあるコトバに注目する。"Quiet Night"とか"Lipstick"あたりの波形の皺とか滲みかたに意識をフォーカスさせるのだ。スピーカーを別のモノに変えても変化は少ないのに、入力系、とくにターンテーブルのクオーツロックのオンオフなどで表情が激変したりする。不思議というわけでもないが・・・



2007/08/10
876 テロリストか?

さきほど、新宿駅西口地下広場を歩いていたわけだが
20メートルくらい向こうにいた警察官がこちらへ向かってきた。

そいつ、顔の筋肉だけはにこやかに、でも鋭い視線を外すことはなかった。

警官「このあたりの警戒を行っています。
お忙しいところ恐縮ですが、バッグの中身を見させてもらえますか」

「ありゃ、怪しそうですか?」わたし

警官「いえいえ、みなさんにご協力いただいております」

・・・って何十人もパスしておいて、よく言うぜ。

むかしだったら、警察官の証明を見せろ、だの
なぜ、あんたにプライバシーを委ねなきゃならんのか、だの
小一時間は揉めたシチュエーションだが
年の甲というか、時間がもったいないから
言われるままに応じてしまった。

けっこう、細かく見るんだよね、これが。

警官「工具などはありませんか?」

・・・今日はもってないけど、

レンチセットは良く持ち歩くし、昨日は札束3束入っていたし(爆)
きっと、どこか別のところへ連れていかれて事情を聞かれるケースだよね、ありゃ。

ってなわけで、時間にして2分弱か。
やはり、風体が怪しいのか?
黒Tシャツ、スーパースリムジーンズ+サスペンダーでメガネは鎖付き、
Samsoniteの小型カメラカバン、そんなに怪しくはないはず。

警官「ご協力、ありがとうございました」

なぜか、言いようのない快感が襲ってきた。
・・・「ジャッカルの日」の主人公みたいに思われたんじゃないだろうか。

あっ、やっぱり暑さで狂ったみたいだ・・・



2007/08/08
875 猛暑お見舞い申しあげます

 



2007/08/06
874 阿久悠「ざんげの値打ちもない」

彼の作品でいちばん印象深く、かつ好きな詞だ。北原ミレイのデビュー作でもあるが、3番の「細いナイフを光らせて」の一節は21歳だった彼女の鋭い眼差しとオーバーラップした記憶がある。

この曲がリリースされた1970年当時は「怨み節」という括りで語られることが多かったが、もっと達観した境地にあるのは4番の詞をみれば明らかで、No.62で取り上げた、ちあきなおみ「酒場川」と同質の鎮魂性を感じる。伝え聞くところでは阿久悠氏は「ポルトガルの教会のクリスマスの夜」をイメージして作ったようで、そのイメージの翼に驚くが、さらに個人的に飛躍させてもらうなら、1番から3番は1965年から70年であり、新左翼運動の隆盛、衰退の年代記ということになる。

残念ながら、手元にある北原ミレイのこの歌は後年に録音された全曲集アルバムで、当時の鋭角的な向かい方は消えているが、この詞は4番に立脚点があるわけだからより曲想に近づいた歌い方というべきか。そうそう、鎮魂性という面でいうと、故・岸洋子の歌ったこの曲は、過ぎ去ったはるか昔の自分自身を偲ぶ"静謐なる慟哭"を意図したように思えるのだが。

作曲は村井邦彦である。(JASRAC作品コード036-2731-4)

♪あれは二月の 寒い夜
 やっと十四になったころ
 窓にちらちら 雪が降り
 部屋はひえびえ 暗かった
 愛というのじゃないけれど
 私は抱かれて みたかった

♪あれは五月の 雨の夜
 今日で十五という時に
 安い指輪を 贈られて
 花を一輪 かざられて
 愛というのじゃないけれど
 私は捧げて みたかった

♪あれは八月 暑い夜
 すねて十九を越えたころ
 細いナイフを 光らせて
 にくい男を 待っていた
 愛というのじゃないけれど
 私は捨てられ つらかった

♪そうしてこうして 暗い夜
 年も忘れた 今日のこと
 街にゆらゆら 灯りつき
 みんな祈りを する時に
 ざんげの値打ちもないけれど
 私は話して みたかった



2007/08/03
873 葉っぱと幹の話し

かつて、ワッシャー1個で激変したり、ホーンの設置ポイントの素材で一喜一憂したり、それこそ当社比で劇的向上を幾度となく繰り返しているのだから、相当良くなっていると思いきや、そうでもない(笑)

これは調整時の意識の向き方、絞り方に起因しているわけだ。トータルでみれば、やはりワッシャー1個なりの貢献でしかないのだ。得てして針小棒大に考えやすい。

ある程度経験を積むと、その場所の変化は良く分かるようになる。その際、ある部分を改良したために逆にトータルで好ましくない方向に向かうこともあるので、絶えず最低ラインが何処なのか探る必要もあるからオーディオって楽しい。ほんとか(笑)

難しいと思うのは、そういうピンポイントの意識をしたためながら、同時に、音楽がいかに鳴っているかという総合判断力を持ち続けることだ。コンピュータに出来ない人間の判断力といったものだろう。

モノゴトは細部の積み重ねで成り立っているとしても、細部の意向にだけ任せたら、とんでもない結果になる。

今日はオチが・・ない(笑) 

じゃぁ、敏感力+鈍感力ってことで、お後が宜しいかと・・・



2007/08/01
872 道の向こう側 a

EF70-200mmF4L/ISを買おうかと思っているが、1.6倍センサーで112-320mmなんて画角がほんとに必要かどうか? 試しに100mmマクロを付けて街頭へ出て、ところかまわずシャッターを押してみた。・・・やっぱり必要ないかも(笑)



2007/08/01
871 道の向こう側 b




2007/08/01
870 道の向こう側 c

↓ピクセル等倍で切り出した画像
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/b7/e9472771de762539bb39d44094bc9b0f.jpg




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