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2007/10/01
896 自然体・・・だけどほんとは硬派。和田博巳流オーディオ的快感について

オーディオ評論家のなかでも飛び切りの売れっ子で、とくに若い世代にファンが多い(ような気がする)和田博巳さん。ステレオサウンドの連載エッセイ「ニア・フィールド・リスニングの快楽」今号では経験的低音論を展開し、最後をこんな感じでまとめている。

「・・・音楽を楽しむ上では、ナローレンジでも小型スピーカーでもそう不安を覚えるとは思わないし、録音の古いレコードを聴いていれば人生それでハッピーと、利いた風な台詞を吐いた僕が、なぜこんなにもワイドレンジな(17Hz〜50KHz!である)スピーカーを使うんだ。わけを説明しろ。とこういうことになるが、んー、困った。演奏はまあまあでも80年代以降にリリースされた素晴らしく録音のいいアルバムのSACDなんかを、わが家のYGで聴くと、超高域や超低域が感じさせる生々しい気配や空気感、暗騒音といったものがフッと立ち現われ、実は、いやがうえにもオーディオ的快感を喚起するのだ。よって私、今後は音楽マニアという看板を下ろして、オーディオマニア宣言させていただく。問題は特に無いと思う。」

いつもの軽妙な文体につられて最後まで読んだら、結論はそれかい(笑) かくいう私は幻聴日記の003で「脱オーディオマニア宣言」しているから、まあ、入れ違いのようなものだが、あまりの面白さにイスから転げ落ちそうになりましたと感想をお伝えしたら、「死ぬほど嬉しい」っていうご返事をいただいた。それがきっかけで、ほとんど初対面の和田さんに逢いに行った。彼のオーディオ関連の文体は独自のスタイルを築いていて、じつはとても憧れているのだ。


空がやけに広い新浦安の風景を楽しむ間もなくアッという間に和田邸に到着。かの朝沼氏がリスニングルームに設えたあの空間である。全然知らなかったのだが、すっごく若い奥さまがいらして、それがまた、超美人で年齢が彼とうん十歳はなれてるんですって・・・まったく羨ましい人生があるもんだ。

というわけで、昼日中からワイングラスを傾けつつ、まずは長年使い込まれたというロジャースのLS3/5A(15Ω)でラファロ時代のエバンストリオや、マイルスのCBS初期、バルバラの前中期を何点か聴かせていただいた。部屋のほぼ中央に孤立して置かれたLS3/5Aは、それでも音楽の重心が心地よく低く、独特の不透明感がミュージシャンの存在を際だてている。よほどの大音量を望まない限り音楽を聴くには適切なかつ十分な器だと改めて思った。DENONのSACDプレイヤーと上杉のプリアンプ、パワーアンプは正月に自ら製作されたという300Bシングル。エディー・パルミエリ"Perfecto"のなかの一曲にとりわけ心を奪われてしまった。ブラスセクションがトロンボーン3本という構成が面白いし、少ない音数でサウンドの裏側まで見るような感覚にゾクゾクした。サルサ系はいままで聴くことが少なかったのだけど、こりゃマズかったぞ、と貴重な経験をさせていただいた。

と、ここまでが先の連載記事の前半部分に重なるわけで、あの記事の追体験モードになっている現在、YGアコースティクスにいやが上にも期待が膨らむ。じつは3か月くらい前にウルトラマニアのビーグルさん邸でアナットリファレンスは体験済みなので、そのポテンシャルの凄さは承知しているつもりなのだが・・・ しかし、柔和な雰囲気の和田さんとALL金属筐体のこのスピーカーシステム"Anat Reference studio"はどうもイメージが結び付かない。改めてシステムのラインナップを記すと(装置がどうたらは実際どうでもいいのだが、マニア宣言なさったことだし・・・笑)フロントエンドがCHORD CODA+DAC64IIデュアルリンクとロクサンのアナログプレイヤー、針はライラのHelikonでフォノイコがCHORD Symphonicという盤石の布陣。プリはクレルのちょっと古いモデルでこれじゃないとドバっと来ないらしい。パワーはLINNでトライアンプドライブ(ネットワークはアナット内蔵)という構成だ。

途中の雑談でマイルスはCBSのトニー・ウイリアムス、ロン・カーター、ウエイン・ショーター、ハービー・ハンコックを擁していた時代が最強という意志統一がなされていたので(笑)アルバム"ESP"から「アジテーション」をリクエストさせていただいた。この時代のマイルスのなかでも白眉の一曲だと思う。そうそう、あとで気がついたのだけれど、この日(9月28日)はマイルス・デイビスの命日だったのだ。

で、どうだったかというと・・・すっ凄い!凄すぎ! わが家でもその再生音にはかなり納得していたのだが、次元が違った。まさに新次元だ。極めて強靱なボディと滲むようなアンビエント成分が指で示せるくらいに識別できるのに、あざとい分離感はない。一体なのだ。マイルスのミュートでマウスピースと唇の圧力変化さえ、あのサウンドの中に示されていたのかと悔しい思いをした(笑) 低域のファンダメンタルは、意外というわけではなかったがかなり控えめに感じたのは気のせいか。LS3/5Aの低域が足りない分を総量で補う再生術に耳がすでに馴染んでしまった、と一瞬思ったが、彼の通常聴取音量はさらに高いところにあるのかもしれない。しかし、凝縮して一糸乱れぬスーパーソニックエクスタシー。これは烏滸がましいはなしだけれど、わたくしが目指しているものとほとんど同一だ。

一転して、Joe Henry(じつは、この人のことはまったく知らなかった)の "Scar"では、アーバンな香りを放ちつつ蒼い澱が積もっていくような哀愁、それを高張力アルミニュームエンクロージャーが一切の箱鳴りを排除しながら表現するのだが、マイルスのときと打って変わって加工しまくりE-Bassの人工的なブーミングを深くかつ豊かに表現する。さらに、エディー・パルミエリの別アルバム(タイトル失念)の高揚感はどこから来るのだろう? 聴き手の血を沸騰させるラテンの本質を伝える装置というものがあるとすれば、和田さんの音はまさにそれだ。どうも、装置の示す限界をなかなか捉えきれない。思うに、このアナットリファレンスは(というか装置全体が)固有のサウンド傾向を持たないのかもしれないと思った。ふつう、そういう場合は味気ないつまらんサウンドになりやすいが、むしろ正反対だからここは謎だ。

先の文章で「オーディオ的快感を喚起する」なんて仰っておられるが、ここまで聴き続けた印象でそれは「音楽的快感の喚起」の間違いだと確信した(笑) 音を超えたところを明らかにするための能力、それはたぶん客観的アキュラシーのことではないと思うが、多様な音楽と使い手の感性に向き合える狂いのない鏡。それが和田さんの求める究極のオーディオ装置なのではないか。その点、ここのLS3/5Aも最大音量さえわきまえれば、同質の能力を持っていると感じた。あるレベルを超えた使い手にとって「音楽的」と「オーディオ的」に境目はないのではないか。音楽的インパクトとオーディオ的快感はじつは同じことを違う視点で見ているだけかもしれない、なんてことを考えた。


知るひとも多いと思うが和田博巳さんはその昔、日本語ロック黎明期の代表的なバンド「はちみつぱい」のベーシストであった。下記のサイトの71年から75年までの軌跡は、フォークからロック、その後のニューミュージックにいたるリアルタイム年代記でもある。そのなかでベーシストとして、あるいはプロデューサーとして培ったキャリアがいまのサウンドに投影されていると考えると、なかなか・・・これはちょっと敵わないかもしれない。

飄々として自然、けれど揺るぎないご自身のスタンスも垣間見た。じつは鋼(はがね)の人かもしれない。だからアナットなんだ。


"はちみつぱい"の軌跡はこちらから。
http://www.geocities.jp/spanishcastlemagic2005/



愛猫 シナモンちゃんとポーズ


 



2007/09/27
895 マスクのはなし(改訂版)

急に涼しくなったせいか風邪ひきが多くなって・・・ってそのマスクじゃぁなくて、まあ似たような効用なのだけど、画像処理のマスク版のはなし。それもグラデーションマスクだ。

昔のフィルム時代の製版現場では、赤いアセテートのマスキングシートを超人的な技巧で切り分ける職人さんがいた。製版フィルムに貼り付けてそれこそ髪の毛一本一本の切り抜きまでこなしてしまう。これは切り抜きの語源でもあるが、要は該当部分の露光を遮蔽するのが目的だ。

製版工程がデジタルになったのは、サウンド関係よりずっと早く1970年代後半には基本的なフローが電子化された。イスラエル製のレスポンスという機械(レイアウトスキャナーと呼ばれていた)は、当時3億円くらいしていて大手の印刷工場にしか置いてなかったけれど、これにより半透明のマスクという概念が生まれた。言いかえれば不透明から全透明までのグラデーションマスクである。先の"切り抜き"はハードエッジだからオン・オフの世界でしかないが、レイアウトスキャナーでは画像同士のフェイドイン・フェイドアウトが可能になったわけだ。

その効用をフル活用したのが、当時のオーディオテクニカの広告だった。担当デザイナーは現在も継続中の遠藤享さんで、大いに羨ましかったものだ。はなしは逸れるがオーディオテクニカの初代デザイナーはかの杉浦康平さんである。

その10年後にレイアウトスキャナーと同じ作業(あるいはそれ以上の)がパソコン上で出来るとは誰も予想しなかった。Adobe Photoshopの出現である。

Photoshop上のマスク版も先人の例にならって赤く表示されるところが面白い。このマスク版の境界をぼかしたうえで、さらに別のグラデーションマスクを適応してぼかし量をコントロールできる。例えば、あるオブジェを切り抜くとしてピントの来ているところはぼかしを少なく、アウトフォーカスの境界部分はぼかしを多くすることで自然な合成ができるというわけ。

この作例(といえるほどの出来映えではないが)では、3重のマスク処理を施している。元画像(下の左上)の輪郭をトレースしたマスク版に一定の幅のぼかしを入れる。さらに画面左のアウトフォース部分が背景とうまく馴染むように別のグラデーションマスクで左に向かってボケを強調する。さらにさらに、ピンの来ているスタイラス(針先)部分は輪郭をシャープに切り抜いた3番目のマスクをつくる。・・・と書くと複雑だが、ものの数分で完成。この総合マスク版(下の右上)を反転させて元画像を選択し、背景(左下)に重ねるだけだ。

デジタルがオンオフの世界というのは、じつは誤りだ(笑) デジタルだからこそ、連続世界を自在にコントロールできるというべきなのだ。(関連オーディオネタへつづく)



 
 

 



2007/09/24
894 望月朴清さんの訃報を聞いて

長唄鳴り物「鼓」演奏の第一人者であった望月朴清さん。
http://www.geocities.jp/rkmzw/
亡くなる3日前まで歌舞伎座で演奏していたそうで、たいへん驚いた。

わたくしが聴いた最後の舞台は一昨年の紀尾井ホールでの「英執着獅子」だった。このときの演奏はかつて聴いたこともないような音響で、21世紀の三味線音楽のありかたを示していたように思う。これは当時の幻聴日記にも書いているが、忘れられない体験になった。
http://www.vvvvv.net/topics/topics.cgi?page=200

このリサイタルの主宰者で立三味線の今藤政太郎さんがお書きになっているエッセイを紹介したい。演奏者もすごい事態に直面したらしいことが、この短文から伝わってくるが、こういう話しを聞くと、伝統音楽といえどその価値は生きている人間の表現力に依存しているとあらためて思った。
http://www.masataro.jp/contents/essay/data/omoi001.html

そういう観点でいえば、昨日のNHK教育TV「芸能花舞台」における素の長唄演奏はいったい何だという出来映えだった。現・芳村伊四郎の「助六」と杵屋巳紗鳳の「吾妻八景」・・・ともに若かりし頃、将来を嘱望された逸才で、いずれ七世芳村伊十郎と並ぶような存在になるかと期待された。しかし、昨日の番組に限っていえば芸に覇気というものが微塵も感じられない。聴き手に迫るものがないのだ。単に正確だったり上手いというだけでは鑑賞音楽としては価値がない。いくらトレーニングしても育まれない、ある部分がそろって欠如している。それは端的にいえば、表現者としての気持ちの在りようではないだろうか。これを伝えたくて音楽をやっているんだ、という・・・

その点、望月朴清は気合いの演奏家だった。謹んでご冥福を申しあげたい。



2007/09/22
893

 



2007/09/22
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2007/09/22
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微光a-f

like a film
http://www.vvvvv.net/film/topics.cgi




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