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photo and Text: machinist

009 A BUS OF THE RISINGSUN
新宿駅南口で外界に出る。一瞬、朝日をあびた「鮮やかさ」が視界に入った。カメラを首から下げる野暮はしたくないので、いつもそれはバッグに潜めている。信号待ちの「鮮やかさ」の正体が、どうか過ぎ去ってしまわぬように祈りながら、あわてて取り出しシャッターを切った。こういうときは構図も露出も、なるようにしかならない。ノートリミングです。というか基本的にトリミングはやらない主義です。
(PENTAX*istD smcA 50mm F1.4)
2004/03/15



008 音場か、音像か、それが問題 II
再生音を聴くとき、意識は「音像」に向かうことが多いです。わたしの場合。しかしこの音像は切り絵のような平面ではダメで、側面から裏面に回り込んでいく様子や、背後の気配さえ感じさせてくれる三次元の音塊であってほしいし、願わくば周囲がすこし滲んで空気と溶けあうさまも・・・ということは「音場」を再現することと変わらないのか? そう、変わりはないけれど、構築することと意識をどこに向かわせるかは、微妙に異なる問題なので、そこに個人のさまざまなアプローチがあると思うわけです。
(PENTAX*istD smcA 50mm F1.4)
2004/03/12



007 音場か、音像か、それが問題 I
クラシックのオーケストラをあまり聴かないので、どうでもいいけれど、原寸大のオーケストラがリスニングルームの大きさと関係なしに感知できるという音場再生に違和感をもっている。超リアリストなんだね(笑)。かといって部屋のサイズにあわせてミニチュアのオーケストラを展開させるのも、盆栽を愛でるようで・・・。
オーケストラのような集団表現は、作曲家の抽象、概念の具現化という意味合いが大きいと思うし、それは出た音と等価以上かもしれない。もとよりコンサートホールは、多くの観衆に聴かせるための手段なわけで、絶対条件ではないはず。100人の演奏者の集積音がサッカーボールくらいの塊になって、それを1.2メートルの距離で聴くのも、それはアリではないかなあ。
(PENTAX*istD FA Macro 50mm F2.8)
2004/03/11



006 中野クラシック、ここだけは空気が止まっていた。
フジヤカメラのついでにちょっと寄ってみようかと。あやー開店前だ、人の気配もない。
五木寛之の若き日のエッセイ「風に吹かれて」にも登場するこの名曲喫茶。前回行ってから30年ちかく経つけれど、その頃も今と同じくらい朽ち果てた雰囲気があった。なんか人間の皮膚のようで、こういう行き方もあるなあ、などと考えながら駅に向かったものです。
ちなみに中野ブロードウエイに住む友人に聞いたところでは、1:粉を溶かしたようなオレンジジュースは昔と同じ、2:壁には寄りかからないほうが賢明、とのこと。ご参考までに。
(PENTAX*istD SIGMA 18-50mm/f3.5-5.6DC)
2004/03/10






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↑フルカラー(RGB各8bit)の精密グレースケールの両端を表示しています。すべてを正確に画き分けるモニターは存在しないと思います。
しかしながら「14」や「242」が識別できない場合はモニターレベルで顕著な黒潰れや白飛びが発生しています。ガンマユーティリティなどを使ってモニター調整することをお奨めします。
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